2007年7月31日火曜日

何かが足りない。それが、なにか?


高校野球について書きます。今日は、僕が、高校野球を好きな理由を書いて、そして、今日をもって、このブログに野球ネタを掲載するのも最後にしたいと思います。今後も、高校野球を愛していきたいと思ってますが、ブログには、あまり555野球価値感を綴るのも、読者にとっては、???だと思いますので、最後にします。
その理由は、僕の応援する全ての高校が地方予選で敗退しました。浜松商業(初戦敗退)、松山商業(2回戦敗退 新田7-5)、広島商業(3回戦敗退 山陽10-0)の全滅です。唯一の私学応援高のPL学園(3回戦敗退 近大一 5-1)、横浜高校(準決勝敗退 東海大相模 6-4)。思い残すことなく、強制的に、卒論に集中できる環境となりました。
横浜高校は、最後まで、残ってくれましたので、インターネットで観戦結果をウォッチしてましたが、ニュースとなる負け方をしてくれました。三振振逃げ3ランホームラン。よく分からない人は、いるかと思いますので、Yahoo記事 または、YouTubeにてご鑑賞ください。負けた事に対し、僕は、選手を責める事しませんが、横浜高校には、地元の浜松シニアチームから2名の選手が野球留学している為、彼らの夢が断たれたことが残念で溜まりません。ピッチャーの落司投手(3年)は、去年の夏、甲子園初戦で、3番手として投げ、あの大阪桐蔭・中田翔にバックスクリーンへの特大ホームランに加え、合計2本打たれいます。まだ、試合が終わっていないのに、ベンチで号泣したシーンが印象的でした。今年、三振振逃げを献上したキャッチャーの小田選手(1年)も同じ、浜松シニア出身で、磐田市福田育ちです。一年生にして、夏のレギュラーを獲得するそのセンスの高さは、将来性あるでしょうね。毎年、我が故郷から、横浜高校には、野球留学する生徒が多く、ベイスターズの鈴木尚典も浜松シニアですし、1998年の松坂率いて春夏連覇した際にも、2名ほどの、同郷選手が貢献しています。僕は、彼らが、なぜ、浜松商業を選択しないのか?っと責めたくもないですし、15歳にして、野心的にレベルの高いところで、チャレンジするその勇気を、逆に、尊敬できます。
結局、2007年の神奈川県予選を勝利し、甲子園切符を手に入れたのは、横浜高校を破った東海大相模ではなく、前日、大先輩であるサッカー全日本の10番-中村俊介の母校・桐光学園って結果になりました。そこで、興味深く、僕の野球感を表現するのに最適な新聞記事を見つけました。東海大相模の門馬監督のコメントです。東海大相模は、春のセンバツは、そこそこ甲子園に来ますが、(92年春にセンバツ準優勝してますが、その時の吉田投手(後に近鉄ドラフト1位)も、浜松シニア出身ですよ!)、夏大会となると30年前の原辰徳以来なく、地方予選で6回も決勝に行きながら敗退し、昨年も決勝で横浜高校に負けています。今年は、準決勝で前年の宿敵・横浜高校を三振振逃げを決勝打に、波に乗って最高だったにも拘らず、決勝で、10-8にて敗退してしまいました。試合後の門馬監督は、 「何かが足りない。その何かが分からない。」っと述べています。本当に、何が足りないのか、分からないんでしょうね。お気持ち分かります。自分が、同じ立場だったら、自分を見失うんではないかと同感します。そんな門馬監督に、僕の高校野球感含め、以下、書きたいと思います。
東海大相模・門馬監督へ
僕は、私学野球が好きではないですが、自分も同じ境遇であったと想像した場合、最終的にたどり着く野球とは、千葉県県立成東高校の野球って事になります。まぁ、浜松商業でも、松山商業でも良いのですが、成東高校の方が、良い例えができそうなので成東高校にて説明させてください。
1970年代の県立成東高校は、「不運の成東」っと言われるほど、強豪であるにも拘らず、宿敵の県立銚子商業に決勝で負け続け、それも、嫌というほど、1点差の勝負に破れ、甲子園に出られずにいます。成東高校は、千葉県山武市って、そんな市町村ありましたっけ?って言うほどの千葉県でありながら、田舎にある高校です。
1989年(僕が中学3年)の時に、押尾投手(ヤクルトドラフト1位)を率いて、念願の甲子園初出場を手に入れます。彼を中心とする守りのチームで、宿敵の銚子商業とは、千葉予選準々決勝で、延長13回の末、1点差の2-1で破る事になります。決勝も拓大紅陵に2-1の1点差にて悲願達成します。熱狂的な成東高校ファンは、連日、地方大会の球場に押しかけ、満員の末、観客が場外にも溢れるほどだったらしいです。甲子園での成東高校は、初戦に地弁和歌山と戦い、成東らしい、延長11回の末、1点差の2-1で念願の甲子園初出場&初勝利を挙げます。僕も、テレビ観戦してましたが、一塁側アルプス席どころか、ライトスタンド、バックネット裏まで埋め尽くした千葉県ファンの大声援で甲子園が異様な雰囲気であったのを、今、思い出しても、身震いします。その後、成東高校は、2回戦で、福岡大大濠高校に4-0で負ける事となります。感動シーンは、その9回表、エース番号を背負った押尾投手が、マウンドで投球練習をしながら、泣き始めました。球場に駆けつけた千葉県ファンが、押尾に大声援な訳です。押尾投手は、試合後、 「ここまで来れたのは、本当に、苦しかったとき、そして、今日のように、負けているにも拘らず、多くの地元ファンが、応援に来てくれて、そんな声援を受けて、今までの自分達を振り返ったときに、涙が止まらなくなった・・・・」っとインタビューに受けています。僕が、甲子園で試合中に号泣した選手は、この押尾投手と横浜高校の落司選手の2名しか知りません。落司投手の場合、悔しさ&先輩への申し訳なさから込み上げてきた涙だったでしょう。押尾投手の場合、悔しさからとかではなく、みんなへの感謝から込み上げてきた涙だったんだと想像します。
そこで、理想とする野球ってのは、当然、選手が貪欲に勝ちに拘り、一生懸命って事が前提になりますが、自分達だけのHappinessだけ追求していても、周りを熱くし、周りを見方に付ける事ができない。周りを見方に付けたとき、負けてもいいんです。勝つこと以上に、得るものが多いわけです。正直、東海大相模が、今回、負けた事は、選手自身、選手父兄、学校関係者、学校OB&OG、いわゆる東海大相模関係者だけが悲しいのであって、それ以外の人は、残念ながら、だれも悲しくないのです。
では、どうすれば、周りを引き付けられるのか?ってことが重要となります。私学で、野球留学を積極的にやると、地元からの支持を得られないのは、現実問題として残るかと思いますが、私の様に、PL学園や横浜高校のような私学を応援しているファンもいる訳で、私学でも伝統校としてコツコツ歴史を築く事で、周りを引き付ける事はできるのです。では、どうするか? 
1点差
で勝てるチームを作る事だけです。そのチームを形成するには、当然、1点差で負ける試合を数多く経験する事が必要になります。この1点差ゲームのできる精神力、駆け引きってのが、魅了するのです。歴史的ゲームの多くが、1点差です。これには、県立、私学の違いなく、ファンを魅了します。
松山商業x三沢       =延長18回 0-0、再試合 2-0
星陵   x箕島       =延長18回 3-4
浜松商 x池田        =延長14回 3-2
横浜xPL学園        =延長17回 9-7 (2点差だけど、5-5で延長突入し、その後は、一進一退。でも大味な試合だけど)
早稲田x駒苫小牧     =延長15回 2-2、再試合 4-3
でも、どうすれば、このシンドイ1点差の試合で、マラソンで言うならば、デットヒートを42キロ続けるみたいな強い精神力が築けるのか?当然、勝つ為の作戦ってのは存在するが、もう、肉体的、精神的にシンドイ延長戦は、作戦っていうのは有効ではなく、無意識に打球に反応する精神力勝負となります。選手をしごく?僕だったら、自分をしごくんだと思います。監督の熱血さ、真剣さ、ストイックさ、その背中から、選手が共感してくれるのを待ちます。最後は、自分との戦いとなるでしょうね。苦しいけど、その苦しさ知った時に、「その何かが分からない」の何かが見えてくるんでしょうね。。。僕も、自分を追い込んでみます。
でも、東海大相模も過去は、良いチームなんですよ。昭和49年夏は、原辰徳(2年生)を率いての甲子園は、圧巻ですよ。2回戦で土浦日大-延長16回 2-3、準々決勝では、定岡正二率いる鹿児島実に延長15回 5-4で力尽きて負けましたが、この2試合共に、9回裏に同点に追い付き、延長でも死闘した事を誇りに思うべきです。今の現役選手にも、そうした先輩達の激闘振りを語り、伝統校である誇りを多いに、語ってあげて下さい。
PS1:
もう高校野球をブログするのは、最後なので、許してください。なんで、自分が、高校野球が好きなのか、自問自答してみました。ふと気づくと、その原点を忘れていたり、知らなかったりして、今回、なんでかなぁ~って自問してみて改めて、気付く事もありました。
昭和最後の大会(昭和63年(1988)-第70回夏選手権)の浜松商業が、僕を、こんなに野球漬けにしてくれたことに気付きましたし、その出来事&シーン&浜商野球部のすべてに感謝している。僕は、中学2年生の夏で、ロンドンに短期留学してまして、浜松商業甲子園出場をロンドンのデパートで日本語新聞を立ち読みして知ることとなり、興奮したのを思い出します。8月15日に帰国し、丁度、その日が、浜松商業の甲子園初戦を迎える日となる。その年の浜松商業は、史上最弱のチームと評価され、案の定、静岡県大会は、シード権獲得できず、一回戦からの参加でした。結局、甲子園に行くことになりますが、地方大会で7試合もする事となります。このチーム、神懸かっていましたし、僕の人生を大きく左右させてくれたゲームを繰り返したので、ブログの最後に、敬意を表し、試合コメントを記入して終わります。
静岡決勝(延長14回)
富士宮西 000 000 100 010 1 /3
浜松商業 001 000 000 010 2 /4
この時の富士宮西の佐藤秀樹投手は、中日よりドラフト指名される好投手であったが、延長で2回も先行されながら、しぶとく、追い着き、逆転勝利。
甲子園初戦
池田高校 020 000 000 000 00 /2
浜松商業 000 020 000 000 01 /3
8月15日の第一試合であったが、延長に突入し、正午を向かえ、1分間の戦没者黙祷をする事となる。池田高校は、西の優勝候補に挙げられながら、史上初の初戦敗退となる。後に池田・蔦文也監督の講演を聞いた際に、浜松商業が、ジャンケンに勝って、後攻を選択した時に、嫌な予感がした。っと、述べている。彼は、更に、初戦は非常に重要で、どんな強豪校も足元をさらわれるし、地方大会の浜商の勝ちあがり方が、なんせ嫌らしく、池田が先行になった時に、すこし嫌な予感がしたそうだ。(一応、蔦さんとの2ショット写真が僕の宝物)
ベスト16
拓大紅陵 100 000 011 / 3
浜松商業 110 010  10x /4
拓大紅陵は、初戦に松山商業を撃破しており、東の優勝候補であった。松山商業の無念を代理で晴らす。
ベスト8
浜松商業 001  000 000 /1
沖縄水産 000 000 002 /2
結局、沖縄水産は、浜商に勝ち、ベスト4に進みます。9回裏の沖縄水産・裁監督の采配が、ジワリジワリで嫌らしかった。本当に、同点に追いついてからのワンアウト・ランナー一塁からの時間を掛けて走者を送ってきてのが印象的。あぁ~言う時は、沖縄水産は、イケイケなんだから、ガンガン来て欲しいところだが、逆に、必要以上の精神的・意図的に時間を掛けられるのが、一番、相手にとってシンドイ。結局、その後の沖水は、次の試合で福岡第一に負ける事となるが、翌90年&91年と大野倫絡め、夏に連続準優勝という最強のチームを作ってきた事を考えると、この浜商vs沖水は、共に、県立高校らしい、両ベテラン監督の鍛え上げたチームによる、嫌らしく複雑な、かつ最高な試合でした。
敗戦したすべての球児の思い込めた決勝は、広島商業x福岡第一との新旧対決となり、その結果が、
70回全国大会決勝
広島商業 000 000 001 /1 
福岡第一 000 000 000 /0
以上、スコアーを掲げた試合は、偶然にも、すべてが1点差ゲーム。しかも、勝負が最終回で決まっている。また、どの試合も、乱打戦となることなく、少ない点数を守りきって、お互いのチームが勝負している。今まで、気付かなかったけど、今、振り返ってみると、70回大会は、僕の好きな宇部商も出て、浜松商業と同じくベスト4目指して、浦和市立と戦うも、延長11回に力尽きて負けている。
すごい大会だったんだなぁ~って思うし、49代表のエーススピードガンランキングで、最速投手は、津久見・川崎148キロ(ヤクルト→中日)で、浜松商業の岡本投手は、47番目の最高速度が127キロだってんだよね。球は、遅かったけど、本当に、外角・外角・外角にスライダーを丁寧に配球してたなぁ~って今も記憶に残っている。だから、沖縄水産に最後、ライト前に打たれて負けたけど、その球も外角スライダーだった。もう、あそこしか投げるところなかったし、ちゃんと、そこに配球できて打たれたから、もうショウガないよね。岡本投手は、一人で全部投げぬき、最後の打たれたスライダーが甲子園で投げたピカイチの球だったと思えます。
史上再弱のチームが、大舞台に出て、一戦一戦、自信をつけ、勝ちあがっていく。当時の浜商ナインは、この大会を振り返り、 「日本一の厳しい練習を積んできた僕達は、途中で諦めるような試合だけはしたくなかった。」って述べている。その根拠が、「絶対に、追いつける、勝てる!」って、彼らを支えたんだろうね。
この同じセリフは、実は、1986年の夏、決勝で天理に3-2(これも1点差)で敗れた松山商業のキャプテン水口が、試合後の全国放送のインタビューで、「僕達は、優勝する為に、日本一の練習をしてきた。それを実現できず、キャプテンとして、みんなに申し訳ないと思っている。負けてしまったけど、今年の松山商業は、全国一のチームだったと思っている。」って準優勝で、全国一って全国放送で言い切った当時の水口(早稲田→近鉄)には、圧巻して感動した。自信を持って、全国一の練習をしてきた!っと豪語できるだけの練習をしてきた事が、既に美しい。
僕は、高校2年生の修学旅行(瀬戸内海&広島)の自由行動の時、友達を率いて、広島商業のグランドを訪問している。当時の仲間も、よく付き合ってくれたなぁ~って感謝するけど、夕方1時間ほど、旅行予定を全部終了した僕達は、やる事がなくなり、嫌がるみんなを説得して、タクシー乗って、広島商業を訪問した。当然、料金は、555支払い。広島商業の練習は、全国的にも有名だが、大昔は、刀の上を歩いた!だとか、もう伝説の世界なんだけど、どうでもいい高校ならば、僕は、いつも、バックネット裏まで行って、野球練習を見るのだが、あの広島商業だけは、バックネット裏までいけなかった。だから、ライトうしろのフェンスから眺めているのが精一杯だった。なぜなら、自分がバックネット裏まで行くと、確実に、練習を中止し、キャプテンが、「練習やめ!全員、脱帽!こんにちは!」って挨拶してくる事は分かっていたし、そうする事で、彼らの緊張感みなぎる練習を中断させてしまっては、申し訳ない。っと、思えるほどの、広島商業は、緊張感あるいい練習をしていた。
僕の人生も、知り合いの中には、順風満帆って言ってくれる人がいるのは、本当にありがたいけど、今の僕があるのも、この浜商魂(Never Give Up even though I don't have enough senses)を、あの時、一番いい時に、一番感受性が旺盛であった時に、出会えたことに感謝する限りである。本当に、浜商みたいに、自分は、センスがないし、高校受験、大学受験、社会人、MBAコースと超低空飛行続けてきたけど、諦めなかったのが、今に繋がっているんだろうなぁ~って思います。だから、今後も、諦めないようにしますし、もっと、もっと、泥臭く生きて生きたいと思います。
PS2:
県立高校の古豪として、春夏合算して、優勝7回・準優勝2回の広島商業と、優勝7回・準優勝4回の松山商業は、長い甲子園の歴史の中で、1931年(昭和6年)のセンバツで一度対戦したっきり、75年以上も再戦がない。その時は、広島商業が2回戦くらいで、3-0で松山商業を下し、春センバツにおいて、初優勝を飾っている。っていうか、その頃は、共に、広島商業中学vs松山商業中学の全国中等学校選手権大会の位置付けだけど。是非とも、僕の頭がさえている時に、再戦して欲しいものである。絶対、甲子園のバックネット裏は、両校の熱心なファンが駆けつけ、大声で応援する事もなく、無心でスコアーブック付けながら、両校の試合を満喫するんじゃないかなぁ~って思います。
僕が、92年のセンバツの三重高校x松山商業をバックネット裏で観戦した時に、その次の試合が横浜x新野(徳島県)っていう、新野のピッチャーはプロ注目でしたし、横浜高校は、鈴木尚典の弟(浜松シニア)が一番レフトでキャプテンしてましたし、良い対戦カードなんだけど、大勢の人が帰っちゃうのです。隣の人も帰る支度してるので聞いたら、「僕達、みんな、松山から来てて、松山商業ファンだから・・」だってさぁ。でも、その松山商業ファンの人たちが使っていたスコアーブックは、市販されていない自分達が独自で作ったスコアーブック(普通市販=A4、マニア使用=B4サイズ)で、配球から打球の行方、打球がどのように転がったかも、すべて記載できるようになっていた。だから、僕も、一枚貰って、それをベースに記録してますが、それが高2→高3になる時の春の出来事でした。
その松山商業x広島商業が、いつの日か、対戦するような事になれば、僕は、その時、ブラジル駐在していようが、病院で点滴打ってようが、どんなことあっても甲子園に駆けつけると思います。みんなは、テレビ見ながら、僕を探してくださいね。その頃は、デジタルハイビジョンだと思いますので・・・・。長生きしたいですね。。。