2007年7月31日火曜日

何かが足りない。それが、なにか?


高校野球について書きます。今日は、僕が、高校野球を好きな理由を書いて、そして、今日をもって、このブログに野球ネタを掲載するのも最後にしたいと思います。今後も、高校野球を愛していきたいと思ってますが、ブログには、あまり555野球価値感を綴るのも、読者にとっては、???だと思いますので、最後にします。
その理由は、僕の応援する全ての高校が地方予選で敗退しました。浜松商業(初戦敗退)、松山商業(2回戦敗退 新田7-5)、広島商業(3回戦敗退 山陽10-0)の全滅です。唯一の私学応援高のPL学園(3回戦敗退 近大一 5-1)、横浜高校(準決勝敗退 東海大相模 6-4)。思い残すことなく、強制的に、卒論に集中できる環境となりました。
横浜高校は、最後まで、残ってくれましたので、インターネットで観戦結果をウォッチしてましたが、ニュースとなる負け方をしてくれました。三振振逃げ3ランホームラン。よく分からない人は、いるかと思いますので、Yahoo記事 または、YouTubeにてご鑑賞ください。負けた事に対し、僕は、選手を責める事しませんが、横浜高校には、地元の浜松シニアチームから2名の選手が野球留学している為、彼らの夢が断たれたことが残念で溜まりません。ピッチャーの落司投手(3年)は、去年の夏、甲子園初戦で、3番手として投げ、あの大阪桐蔭・中田翔にバックスクリーンへの特大ホームランに加え、合計2本打たれいます。まだ、試合が終わっていないのに、ベンチで号泣したシーンが印象的でした。今年、三振振逃げを献上したキャッチャーの小田選手(1年)も同じ、浜松シニア出身で、磐田市福田育ちです。一年生にして、夏のレギュラーを獲得するそのセンスの高さは、将来性あるでしょうね。毎年、我が故郷から、横浜高校には、野球留学する生徒が多く、ベイスターズの鈴木尚典も浜松シニアですし、1998年の松坂率いて春夏連覇した際にも、2名ほどの、同郷選手が貢献しています。僕は、彼らが、なぜ、浜松商業を選択しないのか?っと責めたくもないですし、15歳にして、野心的にレベルの高いところで、チャレンジするその勇気を、逆に、尊敬できます。
結局、2007年の神奈川県予選を勝利し、甲子園切符を手に入れたのは、横浜高校を破った東海大相模ではなく、前日、大先輩であるサッカー全日本の10番-中村俊介の母校・桐光学園って結果になりました。そこで、興味深く、僕の野球感を表現するのに最適な新聞記事を見つけました。東海大相模の門馬監督のコメントです。東海大相模は、春のセンバツは、そこそこ甲子園に来ますが、(92年春にセンバツ準優勝してますが、その時の吉田投手(後に近鉄ドラフト1位)も、浜松シニア出身ですよ!)、夏大会となると30年前の原辰徳以来なく、地方予選で6回も決勝に行きながら敗退し、昨年も決勝で横浜高校に負けています。今年は、準決勝で前年の宿敵・横浜高校を三振振逃げを決勝打に、波に乗って最高だったにも拘らず、決勝で、10-8にて敗退してしまいました。試合後の門馬監督は、 「何かが足りない。その何かが分からない。」っと述べています。本当に、何が足りないのか、分からないんでしょうね。お気持ち分かります。自分が、同じ立場だったら、自分を見失うんではないかと同感します。そんな門馬監督に、僕の高校野球感含め、以下、書きたいと思います。
東海大相模・門馬監督へ
僕は、私学野球が好きではないですが、自分も同じ境遇であったと想像した場合、最終的にたどり着く野球とは、千葉県県立成東高校の野球って事になります。まぁ、浜松商業でも、松山商業でも良いのですが、成東高校の方が、良い例えができそうなので成東高校にて説明させてください。
1970年代の県立成東高校は、「不運の成東」っと言われるほど、強豪であるにも拘らず、宿敵の県立銚子商業に決勝で負け続け、それも、嫌というほど、1点差の勝負に破れ、甲子園に出られずにいます。成東高校は、千葉県山武市って、そんな市町村ありましたっけ?って言うほどの千葉県でありながら、田舎にある高校です。
1989年(僕が中学3年)の時に、押尾投手(ヤクルトドラフト1位)を率いて、念願の甲子園初出場を手に入れます。彼を中心とする守りのチームで、宿敵の銚子商業とは、千葉予選準々決勝で、延長13回の末、1点差の2-1で破る事になります。決勝も拓大紅陵に2-1の1点差にて悲願達成します。熱狂的な成東高校ファンは、連日、地方大会の球場に押しかけ、満員の末、観客が場外にも溢れるほどだったらしいです。甲子園での成東高校は、初戦に地弁和歌山と戦い、成東らしい、延長11回の末、1点差の2-1で念願の甲子園初出場&初勝利を挙げます。僕も、テレビ観戦してましたが、一塁側アルプス席どころか、ライトスタンド、バックネット裏まで埋め尽くした千葉県ファンの大声援で甲子園が異様な雰囲気であったのを、今、思い出しても、身震いします。その後、成東高校は、2回戦で、福岡大大濠高校に4-0で負ける事となります。感動シーンは、その9回表、エース番号を背負った押尾投手が、マウンドで投球練習をしながら、泣き始めました。球場に駆けつけた千葉県ファンが、押尾に大声援な訳です。押尾投手は、試合後、 「ここまで来れたのは、本当に、苦しかったとき、そして、今日のように、負けているにも拘らず、多くの地元ファンが、応援に来てくれて、そんな声援を受けて、今までの自分達を振り返ったときに、涙が止まらなくなった・・・・」っとインタビューに受けています。僕が、甲子園で試合中に号泣した選手は、この押尾投手と横浜高校の落司選手の2名しか知りません。落司投手の場合、悔しさ&先輩への申し訳なさから込み上げてきた涙だったでしょう。押尾投手の場合、悔しさからとかではなく、みんなへの感謝から込み上げてきた涙だったんだと想像します。
そこで、理想とする野球ってのは、当然、選手が貪欲に勝ちに拘り、一生懸命って事が前提になりますが、自分達だけのHappinessだけ追求していても、周りを熱くし、周りを見方に付ける事ができない。周りを見方に付けたとき、負けてもいいんです。勝つこと以上に、得るものが多いわけです。正直、東海大相模が、今回、負けた事は、選手自身、選手父兄、学校関係者、学校OB&OG、いわゆる東海大相模関係者だけが悲しいのであって、それ以外の人は、残念ながら、だれも悲しくないのです。
では、どうすれば、周りを引き付けられるのか?ってことが重要となります。私学で、野球留学を積極的にやると、地元からの支持を得られないのは、現実問題として残るかと思いますが、私の様に、PL学園や横浜高校のような私学を応援しているファンもいる訳で、私学でも伝統校としてコツコツ歴史を築く事で、周りを引き付ける事はできるのです。では、どうするか? 
1点差
で勝てるチームを作る事だけです。そのチームを形成するには、当然、1点差で負ける試合を数多く経験する事が必要になります。この1点差ゲームのできる精神力、駆け引きってのが、魅了するのです。歴史的ゲームの多くが、1点差です。これには、県立、私学の違いなく、ファンを魅了します。
松山商業x三沢       =延長18回 0-0、再試合 2-0
星陵   x箕島       =延長18回 3-4
浜松商 x池田        =延長14回 3-2
横浜xPL学園        =延長17回 9-7 (2点差だけど、5-5で延長突入し、その後は、一進一退。でも大味な試合だけど)
早稲田x駒苫小牧     =延長15回 2-2、再試合 4-3
でも、どうすれば、このシンドイ1点差の試合で、マラソンで言うならば、デットヒートを42キロ続けるみたいな強い精神力が築けるのか?当然、勝つ為の作戦ってのは存在するが、もう、肉体的、精神的にシンドイ延長戦は、作戦っていうのは有効ではなく、無意識に打球に反応する精神力勝負となります。選手をしごく?僕だったら、自分をしごくんだと思います。監督の熱血さ、真剣さ、ストイックさ、その背中から、選手が共感してくれるのを待ちます。最後は、自分との戦いとなるでしょうね。苦しいけど、その苦しさ知った時に、「その何かが分からない」の何かが見えてくるんでしょうね。。。僕も、自分を追い込んでみます。
でも、東海大相模も過去は、良いチームなんですよ。昭和49年夏は、原辰徳(2年生)を率いての甲子園は、圧巻ですよ。2回戦で土浦日大-延長16回 2-3、準々決勝では、定岡正二率いる鹿児島実に延長15回 5-4で力尽きて負けましたが、この2試合共に、9回裏に同点に追い付き、延長でも死闘した事を誇りに思うべきです。今の現役選手にも、そうした先輩達の激闘振りを語り、伝統校である誇りを多いに、語ってあげて下さい。
PS1:
もう高校野球をブログするのは、最後なので、許してください。なんで、自分が、高校野球が好きなのか、自問自答してみました。ふと気づくと、その原点を忘れていたり、知らなかったりして、今回、なんでかなぁ~って自問してみて改めて、気付く事もありました。
昭和最後の大会(昭和63年(1988)-第70回夏選手権)の浜松商業が、僕を、こんなに野球漬けにしてくれたことに気付きましたし、その出来事&シーン&浜商野球部のすべてに感謝している。僕は、中学2年生の夏で、ロンドンに短期留学してまして、浜松商業甲子園出場をロンドンのデパートで日本語新聞を立ち読みして知ることとなり、興奮したのを思い出します。8月15日に帰国し、丁度、その日が、浜松商業の甲子園初戦を迎える日となる。その年の浜松商業は、史上最弱のチームと評価され、案の定、静岡県大会は、シード権獲得できず、一回戦からの参加でした。結局、甲子園に行くことになりますが、地方大会で7試合もする事となります。このチーム、神懸かっていましたし、僕の人生を大きく左右させてくれたゲームを繰り返したので、ブログの最後に、敬意を表し、試合コメントを記入して終わります。
静岡決勝(延長14回)
富士宮西 000 000 100 010 1 /3
浜松商業 001 000 000 010 2 /4
この時の富士宮西の佐藤秀樹投手は、中日よりドラフト指名される好投手であったが、延長で2回も先行されながら、しぶとく、追い着き、逆転勝利。
甲子園初戦
池田高校 020 000 000 000 00 /2
浜松商業 000 020 000 000 01 /3
8月15日の第一試合であったが、延長に突入し、正午を向かえ、1分間の戦没者黙祷をする事となる。池田高校は、西の優勝候補に挙げられながら、史上初の初戦敗退となる。後に池田・蔦文也監督の講演を聞いた際に、浜松商業が、ジャンケンに勝って、後攻を選択した時に、嫌な予感がした。っと、述べている。彼は、更に、初戦は非常に重要で、どんな強豪校も足元をさらわれるし、地方大会の浜商の勝ちあがり方が、なんせ嫌らしく、池田が先行になった時に、すこし嫌な予感がしたそうだ。(一応、蔦さんとの2ショット写真が僕の宝物)
ベスト16
拓大紅陵 100 000 011 / 3
浜松商業 110 010  10x /4
拓大紅陵は、初戦に松山商業を撃破しており、東の優勝候補であった。松山商業の無念を代理で晴らす。
ベスト8
浜松商業 001  000 000 /1
沖縄水産 000 000 002 /2
結局、沖縄水産は、浜商に勝ち、ベスト4に進みます。9回裏の沖縄水産・裁監督の采配が、ジワリジワリで嫌らしかった。本当に、同点に追いついてからのワンアウト・ランナー一塁からの時間を掛けて走者を送ってきてのが印象的。あぁ~言う時は、沖縄水産は、イケイケなんだから、ガンガン来て欲しいところだが、逆に、必要以上の精神的・意図的に時間を掛けられるのが、一番、相手にとってシンドイ。結局、その後の沖水は、次の試合で福岡第一に負ける事となるが、翌90年&91年と大野倫絡め、夏に連続準優勝という最強のチームを作ってきた事を考えると、この浜商vs沖水は、共に、県立高校らしい、両ベテラン監督の鍛え上げたチームによる、嫌らしく複雑な、かつ最高な試合でした。
敗戦したすべての球児の思い込めた決勝は、広島商業x福岡第一との新旧対決となり、その結果が、
70回全国大会決勝
広島商業 000 000 001 /1 
福岡第一 000 000 000 /0
以上、スコアーを掲げた試合は、偶然にも、すべてが1点差ゲーム。しかも、勝負が最終回で決まっている。また、どの試合も、乱打戦となることなく、少ない点数を守りきって、お互いのチームが勝負している。今まで、気付かなかったけど、今、振り返ってみると、70回大会は、僕の好きな宇部商も出て、浜松商業と同じくベスト4目指して、浦和市立と戦うも、延長11回に力尽きて負けている。
すごい大会だったんだなぁ~って思うし、49代表のエーススピードガンランキングで、最速投手は、津久見・川崎148キロ(ヤクルト→中日)で、浜松商業の岡本投手は、47番目の最高速度が127キロだってんだよね。球は、遅かったけど、本当に、外角・外角・外角にスライダーを丁寧に配球してたなぁ~って今も記憶に残っている。だから、沖縄水産に最後、ライト前に打たれて負けたけど、その球も外角スライダーだった。もう、あそこしか投げるところなかったし、ちゃんと、そこに配球できて打たれたから、もうショウガないよね。岡本投手は、一人で全部投げぬき、最後の打たれたスライダーが甲子園で投げたピカイチの球だったと思えます。
史上再弱のチームが、大舞台に出て、一戦一戦、自信をつけ、勝ちあがっていく。当時の浜商ナインは、この大会を振り返り、 「日本一の厳しい練習を積んできた僕達は、途中で諦めるような試合だけはしたくなかった。」って述べている。その根拠が、「絶対に、追いつける、勝てる!」って、彼らを支えたんだろうね。
この同じセリフは、実は、1986年の夏、決勝で天理に3-2(これも1点差)で敗れた松山商業のキャプテン水口が、試合後の全国放送のインタビューで、「僕達は、優勝する為に、日本一の練習をしてきた。それを実現できず、キャプテンとして、みんなに申し訳ないと思っている。負けてしまったけど、今年の松山商業は、全国一のチームだったと思っている。」って準優勝で、全国一って全国放送で言い切った当時の水口(早稲田→近鉄)には、圧巻して感動した。自信を持って、全国一の練習をしてきた!っと豪語できるだけの練習をしてきた事が、既に美しい。
僕は、高校2年生の修学旅行(瀬戸内海&広島)の自由行動の時、友達を率いて、広島商業のグランドを訪問している。当時の仲間も、よく付き合ってくれたなぁ~って感謝するけど、夕方1時間ほど、旅行予定を全部終了した僕達は、やる事がなくなり、嫌がるみんなを説得して、タクシー乗って、広島商業を訪問した。当然、料金は、555支払い。広島商業の練習は、全国的にも有名だが、大昔は、刀の上を歩いた!だとか、もう伝説の世界なんだけど、どうでもいい高校ならば、僕は、いつも、バックネット裏まで行って、野球練習を見るのだが、あの広島商業だけは、バックネット裏までいけなかった。だから、ライトうしろのフェンスから眺めているのが精一杯だった。なぜなら、自分がバックネット裏まで行くと、確実に、練習を中止し、キャプテンが、「練習やめ!全員、脱帽!こんにちは!」って挨拶してくる事は分かっていたし、そうする事で、彼らの緊張感みなぎる練習を中断させてしまっては、申し訳ない。っと、思えるほどの、広島商業は、緊張感あるいい練習をしていた。
僕の人生も、知り合いの中には、順風満帆って言ってくれる人がいるのは、本当にありがたいけど、今の僕があるのも、この浜商魂(Never Give Up even though I don't have enough senses)を、あの時、一番いい時に、一番感受性が旺盛であった時に、出会えたことに感謝する限りである。本当に、浜商みたいに、自分は、センスがないし、高校受験、大学受験、社会人、MBAコースと超低空飛行続けてきたけど、諦めなかったのが、今に繋がっているんだろうなぁ~って思います。だから、今後も、諦めないようにしますし、もっと、もっと、泥臭く生きて生きたいと思います。
PS2:
県立高校の古豪として、春夏合算して、優勝7回・準優勝2回の広島商業と、優勝7回・準優勝4回の松山商業は、長い甲子園の歴史の中で、1931年(昭和6年)のセンバツで一度対戦したっきり、75年以上も再戦がない。その時は、広島商業が2回戦くらいで、3-0で松山商業を下し、春センバツにおいて、初優勝を飾っている。っていうか、その頃は、共に、広島商業中学vs松山商業中学の全国中等学校選手権大会の位置付けだけど。是非とも、僕の頭がさえている時に、再戦して欲しいものである。絶対、甲子園のバックネット裏は、両校の熱心なファンが駆けつけ、大声で応援する事もなく、無心でスコアーブック付けながら、両校の試合を満喫するんじゃないかなぁ~って思います。
僕が、92年のセンバツの三重高校x松山商業をバックネット裏で観戦した時に、その次の試合が横浜x新野(徳島県)っていう、新野のピッチャーはプロ注目でしたし、横浜高校は、鈴木尚典の弟(浜松シニア)が一番レフトでキャプテンしてましたし、良い対戦カードなんだけど、大勢の人が帰っちゃうのです。隣の人も帰る支度してるので聞いたら、「僕達、みんな、松山から来てて、松山商業ファンだから・・」だってさぁ。でも、その松山商業ファンの人たちが使っていたスコアーブックは、市販されていない自分達が独自で作ったスコアーブック(普通市販=A4、マニア使用=B4サイズ)で、配球から打球の行方、打球がどのように転がったかも、すべて記載できるようになっていた。だから、僕も、一枚貰って、それをベースに記録してますが、それが高2→高3になる時の春の出来事でした。
その松山商業x広島商業が、いつの日か、対戦するような事になれば、僕は、その時、ブラジル駐在していようが、病院で点滴打ってようが、どんなことあっても甲子園に駆けつけると思います。みんなは、テレビ見ながら、僕を探してくださいね。その頃は、デジタルハイビジョンだと思いますので・・・・。長生きしたいですね。。。

2007年7月30日月曜日

歴史的大敗?2007年参議員選挙を問う


みなさんは、選挙行かれましたが?私は、意志もって、選挙権の行使を棄権しました行こう!っと日曜日の朝は、気合入っていましたが、封筒を開けて、投票場所を確認したら、そこは、えらく遠いところにあることが判明しました。残念ながら、投票する事を断念し、卒論なんかで徹夜してましたので、昼間をずっと寝ちゃいまして、起きたら、「自民党40議席を割る!」って事になってました。要するに、私が、寝ている間に、「山は動いた!」ことになります。
今回の選挙は、丸川さんを応援してましたので、行きたかったですし、彼女も東京選挙区で、最後の5人目を争って、辛うじて祝当選されたそうで、私が、うちわで扇いであげられたら、微力ながら、ちょっと(一票分)は、楽できたのに、申し訳なく思っています。ごめんなさい。
選挙には、行かなかったですが、東京都選挙委員会には、電話で抗議してました。だって、私の住むのは、お台場ですが、お台場のフジテレビから南に2分走ったところにある江東区青海って地区に住んでいます。お台場の近くの小学校が、投票場だと思うじゃない?でも、そこは、港区管轄なんだって。江東区の人口は、50万人弱らしく、投票場も53箇所あるそうなので、1箇所/1万人の割合で、場所が確保されているらしいですが、私が投票しようとする場合、往復電車賃540円使用し、豊洲方面に向かい、到着駅から徒歩片道5分掛かる事になります。全工程1時間以上の作業になります。確かに、周りを見渡しても、私の近所は、ホテルや博物館、コンテナ会社の倉庫ばかりで、いわゆる東京に居ながらにして、過疎地に住んでいるです。ある昔、日テレのプロ野球中継で、「野球放送終了の時間ですが、一部の地域を除き、9:20まで放送を延長します!」っていう、自分が一部の地域になってしまっているって事です。人生において、マイノリティーを初めて実感できました。私は、マイノリティーだったのです。
ならば、期日前投票しておけば・・・っていう人もいるかと思いますが、東陽町区役所やその他3箇所共に、すべて、遠いです。私は、非国民なのでしょうか?今回、気付いたのですが、老人だとか、山間の町に住む方だとかは、投票そのものが大変なんだなぁ~って、つくづく、感じました。自家用車を持っていれば、その壁は、比較的、容易に乗りこなせますが、持っていない場合、公共輸送手段を乗り継いで、出費して、2枚の紙に記入するだけってのは、なんか、割に合わないような気がします。
そこで、私が、選挙管理委員会会長ならば、安部さんに提案する事として、
前日に届く投票勧告書は継続し、すべてバーコード化する。そうすれば、全国どこの投票場でも、バーコード読み込めば、555が江東区青海在住で、東京選挙区に投票しようと分かるはずで、投票率向上と共に、選挙権保有者を保護する事にもなります。みんな夏休みで観光地へ出かけてる訳だし、今日も、お台場周辺は、ちびっ子中心に、多くの観光客で賑わってました。奴らは、絶対に、地元で投票してからは、来てない。っと思われる訳です。バーコード票を持っていれば、お台場で、神奈川選挙区・千葉選挙区に投票できるのです。
毎回、選挙に行くと、「マジで?」って思わされるのは、分厚い住民台帳から、若い公務員の方が、必死に、僕の存在を探してくれるじゃん。それで、赤鉛筆で、マークなんかしちゃって、その後、投票用紙を配布するでしょ。あの人、要らないと思います。バーコードにすると、初回、絶対、なんらかのミスが予想されますが、今回の三重県などでの、小選挙区用紙と比例区用紙とを間違いて配布しちゃった人よりは、確実な、いい仕事をマイクロソフト社は、提供してくれると思います。IBMかな?いや、日本の企業だって、富士通とか、パーフェクトにやりますよ!公務員の人にとっても大変な労働で、選挙日は、朝から開票まで労働して、それで、代休でしょ?まぁ、休日手当て狙いでやりたいって言うのならば、認めても良いですが、そろそろ、不要の時では・・・。
そろそろ、いい加減に、インターネット始めませんか?何が、インターネット導入に踏み切れないのかが、理解できません。ましてや、マイノリティーの僕を救ってくれるのは、インターネットしかないですし、ご老人にしても、また、ネット難民やニートだって、ネットカフェから投票できる訳ですよ。投票率が、上がった下がったをマスコミは報道し、前回よりも、期日前投票数が1.5倍になり、国民の国政への関心の高まり?ちゃらちゃら馬鹿げていて、みんな、夏休みだから、前倒しして投票しているだけで、台風なんかに襲われたら、投票率3%でも国政が進んでしまうわけですよ!97%が行きたくても、行けなくても、当選者で政治がされちゃう訳ですよ。ネット投票するにしても、ちゃんと投票日までに、封筒にて投票権利書が届くようにする訳です。開封すると、自分のパスワードが記入されていて、ネットのポータル画面から、そのパスワード打って、投票すれば、誰が、投票したかが分かると思いますが・・・。
特に、比例制選挙においては、紙投票でも、マークシート方式にすべきです。なんで、10代後半に、人生の分岐点を掛けたセンター試験を記述式にしないのですか?それは、採点に時間と労力が掛かるからです。だから、マークシートだよね。比例は、鉛筆で、黒塗りにすべきでしょ?

以上の事をすると、選挙に掛かる費用は、初期投資こそ掛かりますが、投資償却織り込んでも△50%できるのではないかと思います。要は、選挙費用の大半は、人件費であり、その費用を削減でき、開票結果も、時間短縮でき、若者の投票率もウナギ昇りですよ!なんで、そうしないんでしょうか? きっと、答えは、次のような内容だと思います。 「だって、そうなったら、今回の選挙で喩えるならば、自民党は、10議席も獲得できずに、大敗どころか、惨敗どころか、瀕死になっちゃうからだよ。分かるよね?」 なるほどねぇ~。これが、政治ですか。。。
PS1: 丸川議員へ
当選おめでとうございます。7月中旬頃に、丸川さんが、実は、投票権がない事が発覚して、ビックリしましたよね。NY勤務から日本に戻られて、転居届けを出すのを忘れちゃったみたいですね。本当に、おっちょこちょいですね。まったくぅ~。そう言うのって忙しいと、忘れちゃいますよね。3年前の事ですもんね。でも、さすがなのが、住民税とかは、どこ宛に支払っていたか不明らしいですが、払っていたみたいで、やっぱし、スゴイと思います。凡人は、住民票がない訳だから、逃げ切ると思いますし、僕だったら、そんな事を考えてしまいます。それにしても、3年間選挙権がないと、前回の参議院選挙、また、2005夏を過熱させ「郵政を問う」選挙にも欠席されたんですね。もう、本当に、おっちょこちょいだなぁ~。気付いてよぉ!
政治的には、丸川さんが、自民党を選択し、公認された時の新聞記事には、「政権政党ではないと、改革はできない!」って強くコメントされていたのを思い出します。今回の選挙は、自民党惨敗で、参議院で野党っとなってしまいますが、くじけず、頑張ってください。上では、皮肉っちゃいましたが、個人的に大好きですので、今後もウォッチしていきますし、頑張ってくださいね。

PS2: 安部内閣総理大臣へ
苦しいねぇ~。こんな事で、辞めないで下さいね。絶対に、辞めないで下さいね。岡山では、参議院幹事長の片山さんが落選されましたが、青木さんも辞任するって言ってますが、中川自民党幹事長も責任取るって言ってますが、ここを凌いでくださいよ。思い起こせば、前任の小泉さんのあとを受けた時に、小泉路線ではなく、安部流カラーを出そう出そうっと考えるのは、ポジショニング理論的に正しいと思います。人とは、違った事をしないと、誰も注目しませんからね。自分が同じ立場だったとしたら、年齢も若いわけだし、年功序列の厳しい政治の世界で、先輩達のコメントも無視できないのも事実でしょう。僕は、安部さんが、40歳代にして自民党幹事長に任命された時には、興奮したものです。これからは、若者が、時代を変えなきゃならない!って、そのホープでしたし、民間企業から見ても、2003年の幹事長就任は、50代&60代のCEOが多い日本企業にとっても、戦慄が走ったのではないかと思います。

今、安部首相は、52歳ですよね。僕も、あと20年すると、同じような年齢になります。その時、自分だったら、どう動くかなぁ~って考えるときに、これからの、安部さんの政治手法と共に、人間としての価値感(Happiness感)は、とても勉強になりますし、注目していきたいと思います。
大変、恐れ多き事ですが、555が、今の安部首相の立場ならばって、ストリーで下記手法を綴ります。
別に、自民党支持者でもないですし、自分は、無党派ですが、述べちゃいます。安部さんは、組閣に失敗しましたね。前世代の年金問題は不運ですし、松岡さん、赤城さんは、組閣事体のミスです。あの組閣から、小泉内閣と比較し、昔の自民党に戻ってしまったかなぁ~って多くの人が、抱いたでしょう。終わったミスは、振り返りません。その組閣の失敗と、今回の選挙惨敗をチャンスに変える手段を考えます
今の自民党を救えるのは、安部さんしかいないし、責任とって辞められる青木さんには申し訳ないですが、世代交代の時期なんです。「時は来た。ただ、それだけだ!(アントニオ猪木・坂口征二vs 蝶野・橋本組が、世代交代を掛けて戦ったときの破壊王・橋本の試合前コメント、’90年)」。小泉さんは、不良債権に悩む日本を柳沢金融大臣を更迭し、竹中さんを引っ張ってきた。要するに、赤城さんと柳沢さんは、更迭すべきなんです。そして、阿部内閣再組織時に、日本民が度肝を抜かすほどのグーッと若い人材を当用してください。安部さん好みの若者で良いです。僕達世代でも良いでしょう。年金問題は、僕達世代が支えていくのだから。
今後、憲法問題でも、年金改革でも、国連常任理事国入りでも議題はなんでも良いですが、参議院では、安部案は、否決されるでしょう。ここで学ぶべきは、小泉氏は、前代未聞の参議院否決後、「国民に問う!」っと衆議院を解散した。安部さんだって、理念があれば、できるし、支持する人はいる。衆議院は、3年周期ぐらいに選挙やってるけど、前回の郵政選挙が2005年の9.11だから、まだ、2年未満だけど、良いんじゃないの。憲法で、前回選挙から2年での衆議院選挙は禁止されてないから、できるよ。そして、国民に再度問う!安部さんは、若者と一緒に心中するのです。日本の若者を問うのです。今後の日本を担う若者に敢えて問うのです。その為に、強権過ぎますが、今の内閣をバサバサ更迭し、平均年齢を10歳~20歳ぐらい下げる。そして、国民に問う「このメンバーで、改革をやらせれくれ!」っと。ニートは、燃えるよ。自民党最大の難航(無党派層)は崩せる。
絶対に、自民党の中で、反対派いる。僕は、今、誰が自民党の影の主か知らないが、小泉さんは、森さんを軽視したし、今ならば、安部さんは、福田さんに対し、土下座して、「一緒に、改革をやらせてくれ!」って、政治理念に基づき、行動する時なのかも知れない。
冗談抜きで、そのくらいやらないと、次の衆議院選挙(普通にいったら2009年頃)にも自民党は大敗するだろうね。三菱自動車がそうであるように、あの自民党も、変わらなきゃ!って時が来たんだろうね。小泉改革とは違った路線で、変えていく。自民党をぶっ壊していく。若者にチャンスをくれ!そしたら、僕達、絶対、Meetするって約束します。熱狂させて下さい!
きっと、上の世代は、言うよね、「まだ、早い。俺達に任せとけ!年齢を基準にするのは、ある意味、差別だろ?」って。そしたら僕達、言います、「お前達のせいで、今、苦労してんだろうが!俺達に任せられないなら、面倒みないぞ!」って、これって、もう世代闘争だけど、そんなのがあっても良いんじゃないかな?2007年が若者元年になって、20年後、僕達の失敗によって、自分達が苦労する事になるならば、それは、本望って奴である。なんで、20年後の自分達の夢を実現させる為に、マイホームを建てようとしているのに、上の世代が、「あ~しろ、こーしろ、お金ないだろ?黙って、聞いてれば、間違いないんだから・・・」???。 ありがとうございます。僕達、自立してますので、自分達の事、心配してください。年金もらえないのが誰のせいなのか?だから、今後は、誰に期待しますか?さぁ、みんな、頑張ろうね!!!
1990年の東京ドームで難攻不落の猪木に挑んだ橋本真也は、その時、25歳でした。僕達世代って事です(ちょっと、若すぎるけど)。試合の結果は、やはり、ボンバイエ猪木の闘魂に負けてしまいます。それで良いんじゃないでしょうか?その後、橋本は、小川とのプロレスvs異種格闘技の因縁の対決で、「負けたら引退宣言」し、結局、敗北し、引退をしました。35歳の時である。その後、ちびっ子の千羽鶴に後押しされ、復帰し、新日本の藤波&長州とバトルし、2001年3月初めに、独立し、両国国技館で叫んだ 「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」っと。同時期、政治の世界では、森喜朗(Wikipedia絶対、参照する事、おススメ!リンク)首相が、5.7%の支持率。まったく同じ頃、小泉氏は、叫んだ! 自民党をぶっ壊す!」って。その後、小泉さんは、2001年4月後半に自民党総裁に就任する。(小泉コメントは、故橋本真也のコピー?) これが、理念というもの。安部さん、負けても良いのです、自分の理念と戦いましょうよ、一緒に!!!

2007年7月29日日曜日

最高の仲間達(武士達)&日本アジアカップ4位


今日は、日付けも変わり7月29日(日)になりましたが、2日前の7月27日(金)の事を中心に日記風に書いてみます。インターネットブログの世界では、全世界の言語の中で、1億人程度(2%弱)しか使用しない日本語のブログが、英語ブログを抜いて、世界一のブログ投稿数なんだってね。それには、Mixiの役割も大きいだろうけど、日本的な日記文化が、それを支えているらしいですね。アメリカ人とかのブログの傾向は、新聞記事、時事問題に対して、自分のオピニオンを主張しているのに対し、日本では、ほのぼの日記が大半を占めるようで、それはそれで、かわいいですね。今まで、僕は、個人的に、日常生活で感じた事を、日記の範囲を超えて、自分の考えを主張しよう!っと意識してきましたが、今回は、日記風に書いてみます。今日は、そんな気分。
金曜日は、MBAクラスの全てが終了して、ホッとしたけど、この仲間全てが同時に集う事は、二度とないかと思うと、悲しくなってきたのが正直な気持ちでした。ビジネスプランのプレゼンが終了し、結果は、賞金ゲットできませんでしたが、それはそれで、なんか納得でき、そんな事は、どうでも良くなっていました。結局、金曜日は、パーティー三昧で、一次会を神保町近くで21:00頃までやって、その後の2次会は、銀座に移動し、朝までカラオケし、飲みつくしました。一週間(いや、一年分)の疲れが溜まっていた為、朝まで起きているのは、体力的にもシンドイものでしたが、仲間との共通の時間が終焉するのが近づいている事を、皆が、感じている為、感慨深い飲み会となりました。この一年は、僕のスタンスは、飲み会があっても、自分の授業予習を優先し、参加しない事もありました。参加する時も、本当に、体力的にもシンドカッたりして、終電には、帰宅していました。今回は、初めて、朝まで仲間と楽しみました。
卒業式は、8月31日なので、また、その時に会えるのですが、それは、全員と会えるわけではありません。2年間コースの生徒は、アメリカ、イギリス、フランス、韓国のMBAスクールに交換留学制度を利用して参加する為、8月中旬より日本を出発します。また、1年間コースの生徒でも、家庭の事情等で、卒業式に参加せず、8月初旬に、国に帰る生徒もいます。要するに、銀座二次会は、最後の集いなんです。 僕は、朝までいましたので、終電帰宅する生徒、終電後のタクシーで帰宅する生徒のみんなとバイバイしたのですが、彼らの後姿を見ながら、ジーンっと来てました。みんな最高な武士だったなぁ~って。今までも、僕は、最高に尊敬できる人と出会う事はありましたが、今回のクラスメイトは、度を越していたなぁ~って、つくづく思います。どんなに自分が頑張っても、追いつけないっと思えましたし、各人が強いキャラクターを持ってましたし、苦しくなればなるほど笑顔を見せた連中でしたし、発想する考えってのも、圧巻でした。世代、会社、国籍を超えて、集まった最高な武士軍団だったなぁ~って、自分が、その軍団に存在していた事を誇りに思います。仲間のお陰です。
お陰様で、土曜日は、熟睡する事でできました。8:00~22:00までの14時間睡眠です。気持ちよかったなぁ~。22:00に起きて、最後の最後、本当に唯一の宿題である卒論続きをしようと、寮の図書館に向かおうとしたら、エレベーターで、クラスの韓国人生徒に出くわした。彼が、「555、今から、どこ行くの?」って聞くので、「図書館!」って答えると、「何考えてるの?アジアカップの3位決定戦の日本x韓国戦を見ないの? Crazyだ!」って言われたので、そのまま、エレベータを降りることなく、ラウンジに向かい、TV観戦しました。
延長までもつれ込む接戦となりましたが、PK戦の末、日本は負けて、4位になりました。明日のスポーツ新聞の酷評が楽しみです。選手は、みんな、頑張ったんだと思うけど、新聞は、羽生!!!って書くだろうし、なんで、稲本呼ばないんだ!!!とか、オシム監督を責めるんだろうね。みんな勝ちたくて戦ったんだけど、プロは、非難を受けなきゃいけないから、本当に、厳しいねぇ。僕は、高校生の時に、スポーツ新聞の記者になりたいと思った事ありましたので、今日のPSコーナーは、日刊スポーツ記者のつもりで、記事を書いてみます。
PS1:
TV観戦をしていて、一番のショッキングシーンは、VIP席を写した映像であった。FIFAのブラッダー会長の横には、韓国サッカー協会の会長で、FIFAの副会長している鄭さんが、厳つい顔で座ってるジャン。まぁ、副会長だから、この席配列は仕方ないけど、日本の小倉JFL副会長が、VIPの後方に座ってるのが、悲しいよね。次は、日本から、副会長選出されるように、しないといかんね。キングカズを担ぐしかないよ。カズ以外に、FIFAのVIP席に負けない器はいないよ。キング、JFLの会長→FIFA副会長になってくれ!
PS2:
韓国チームって凄い頑張ったよね。後半に、一人、レッドカードで退場したけど、10x11の人数のハンディーをよくしのいだよね。審判の判定もすごく微妙だったから、あれで、韓国が負けていたら、絶対、疑惑の判定として、韓国人サポータは、熱狂しただろうね。僕にとっての韓国サッカーのイメージは、2002年日韓ワールドカップの「韓国xイタリア」「韓国xスペイン」が印象的。マスコミの加熱、テレビ放映のアングル等、すべての映像を信じてはならないけど、韓国選手のアンフェアーなプレーが取り上げられた。後に、FIFAも過去100年ワールドカップの10大誤審として、上記2試合から、4つのプレーを選んでいる辺りが、韓国3位躍進に影を付けちゃったんだけど。また、その後、イタリア戦のエクアドル出身の主審は、FIFAから理由不明の永久追放されているから、本当に、闇っぽいよね。2002年に、韓国は、ワールドカップ3位の名誉を得ながら、正直、国際サッカーファンから烙印を押されたと思う。特に、ヨーロッパからは、完全に見放された。FWの安貞桓(アンジョンファン)は、イタリアリーグ(ペルージャ)をクビになり、スペイン移籍考えるも、引き受け先なく、清水エスパルスに移籍させられたし、韓国との親善試合は、ラフプレーをするからと多くのヨーロッパクラブが拒絶したりもした。
今の世代からしてみたら、6年前の世代が犯したプレーにより世界に与えたイメージを背負って試合をする事となる。正直、今日の僕は、韓国選手のファウルプレーに、正直、微妙に敏感になっていたし、多くのファンが、韓国は、「なりふり構わず、ラフプレーをしてまでも、勝ちに拘ってくる。特に、日本に対しては、尋常でないプレーをする!」って思いながら、見てたんじゃないかなぁ~って思う。でも、実際は、そんなことなく、あのレッドカードで退場させられたシーンなんかは、ビデオ再生で振返ってみても、ちょっと、韓国にとっては、可愛そうだったかなぁ~って、正直、感じました。監督・コーチまでも退場になる始末だし。また、日本人選手の方が、不必要なラフプレー、相手を挑発するようなプレーがあったのではないかなぁ~って思う。 僕が言いたいのは、前の世代が犯した(酷評された)事を、背負って戦う今の世代は、イメージが先行してしまい、相当、不利な状況にある中で、120分しのぎきって、PK戦にもつれ込ませ、結果、勝利した昨日の韓国チームは、相当、根性あるよ。これって、評価できる戦いだっただろうね。尊敬に値する。
昔の話で、第二次世界大戦のイメージを背負っている我々、555世代は、昨日の韓国チームから学ぶ事があるような気がしました。 さて、日本チーム。羽生は、絶対、明日の朝刊で、ガンガン責められるだろうなぁ~。プロだから、結果が全てだし、それも、仕方ないのかもしれない。でも、酷評するのは、皆、アマチュア連中。仮にすべての国民がプロならば、羽生だけを責める事はしないだろう。なぜなら、プロとして、羽生が一番悔しい事を知っているから。。。だって、あのロベルト・バッジオだって、94年のアメリカワールドカップのブラジルとの決勝戦のあの場面で、PKを外している。自分が、あのシーンで蹴るとしたら、あなたなら、決められますか?羽生選手、期待してますよ。きっと、彼は、次、やってくれます!
PS3:
2002年ワールドカップでの韓国チームの戦いぶりは、YouTubeで、相当叩かれています。以下、YouTubeリンク先を添付しますが、オフィスでクリックする方は、ボリュームを最小限にしてくださいね。あと、これを見て、感情的に、韓国を責めないで下さいね。また、韓国ひいきする僕を、「お前も朝鮮人か?」って言う人がいたら、悲しいから反論しないけど、そんな低レベルな議論は辞めましょう。世界は、ボーダーレスですから・・・。この映像は、ヨーロッパを熱狂的にかく乱させましたが、ヨーロッパ寄りに作られた映像である事も、見る人は理解しないといけないです。見るもの全てに感情的になるのではなく、そこから、何を感じるか、どう対応するかってのが、重要となる訳です。

では、世界を騒がした映像をどうぞ!2002 World Cup ( ITA vs KOR ) ( ESP vs KOR ) wrong referee

2007年7月28日土曜日

Redress the balance!


Redressとは、他動詞で“問題などを是正する”って意味です。だから、Redress the Balance!は、「バランスを取ろう!」ってのが、今日のテーマです。世間では、バランスの取れた人って、クールよねぇ~って言われるから、僕も、バランス取れた紳士になりたいよね。まぁ、ミーハーって言われても、ハイ、ミーハーです。
なんでもそうなんだけど、物事を追求していくと、最終的には、「ほどほどに・・・」てな、バランス均等の問題になる。余りに優しすぎると物足りなくなるし、余りにもワイルド過ぎると、ちょっとくらい優しくしてくれてもいいのに・・・って事になる。余りにも仕事に没頭しすぎると、ちょっとは、家庭にもウエイトを置いた方が言いといわれ、余りにもハマちゃんをやっちゃうと、今度は、「うちの主人は、会社では、大丈夫かしら・・・」って心配させる事になる。バランスです。ある意味、絶妙な陰陽が求められます。
日本歌謡界で言ったら三橋美智也、野球で言ったら土橋正幸(ヤクルト監督、矢沢健一とは、プロ野球ニュースで犬猿の仲)、プロレスで言ったら破壊王・橋本真也。彼らに共通して言える事が、姓名にBrigde(橋)が付く事かな。または、共通して、人々を熱狂させたアーティストかな。産業界にキャプテンを創出する大学といえば、我が大学って事になります。断言してはいけませんが、大学の目指しているポリシーは、キャプテンの輩出って事に注視しているのは事実です。
その派生大学院であるMBAコースのコンセプトが、僕は大好きです。 当MBAコースは、この橋(Bridge)コンセプトを引継ぎ、両極端世界の橋渡しをする人材の輩出に注視しています。両極端とは、
1)東洋 vs 西洋
2)New Economy vs Old Economy
3)Theory(理論)vs Practice(実践)
4)Have(持つ者)vs Have nots(持たざる者)
の事で、その中間に存在するものが、Best of the two worlds って事になります。要するに、両方のコンセプトを理解、習得し、その橋渡してきな役割を担う人材に僕もなりたいです。視野の広い、聞く耳を持ち、一方的独裁でなく、期待される人材になりたいと思っています。 このコンセプトって凄く重要だと思います。
政治の問題でも、中央集権国家 vs 地方分権国家、グローバル企業の問題でも、本社集約型 vs 現地主導型、または、標準化(Standardize) vs 地域カスタマイズ化(Customize)って、民間企業に勤めた事ある人ならば、経験した事のある問題ではないでしょうか。その時に、顧客が求めているのだから、国毎にカスタマイズして販売を伸ばすべきだ!とか言う人がいたり、いやいや、本社開発人数が限界に来ているから、日本で集約し、標準化させる事でコスト削減だぁ~って、言う人もいるだろうね。
こんな話は、日常業務で毎日発生している訳で、権限譲渡する上司と、譲渡しすぎだって不満を持つ部下。でも、このアンバランスも、日常業務の多忙さに加え、人間関係とか、たんなるストレスとかが絡み合い、感情的に、「上司は、自分は何もしないくせに、ガンガン、仕事を下に降ろしてくる!」って文句を言う事は、誰しもが一度は経験することでしょう。私の場合は、「もっと、降ろさんか!」って不満募ってましたし・・・。
そこで、今後、僕が、どう動きたいかって言うと、両方の橋渡し的存在になりたいよね。中間的ポジションを取る事は、自分の意見がないって事でもないし、優柔不断っていう事でもなく、両方の長所、短所を理解し、タイミングに応じて、広い視野でジャッジしたいよね。なにが、最適かって。議論する際には、たいがいは、両極端の意見から始まり、最終的な結論は、至って、その中間案ってのが多いですしね。妥協案って事ではないですよ。それが、ベストだから選択するのです。
中間案になる場合、その程度(どちらより)が今度は問題になる訳で・・・。橋渡し役も大変そうだね。 でも、確実に、言える事は、橋渡し役は、両端のコンセプトを理解していないと、機能を果たさないという事です。要するに、田島陽子では、駄目と言う事です。正直、両端を理解するっと言う事は、2倍の労力を使うっと言っても過言ではないと思います。まぁ、要領いい人は、1.5倍だけど。なんか、苦労しそうな役目だけど、そこに、僕は美(Beauty)を感じますので、Happiess追求家として、精進したいと思います。
PS1:
今までの人生を振り返ってみると、僕は、本質的に、Bridge(橋)的思考の元、生活してきました。正直、両極の意見、性格の違う人間とも、それなりに接する事ができますし、それによってストレスを感じる事もありませんし、まさに、橋的思考が根付いております。今回のブログのテーマであるバランスはある。っとも言えますが、自分を更に分析するに、全然、自分の意見がなかったように思います。要するに、自分の意見がないから、どっちでも良いし、なんでも良いし、なるようになれば良いし・・・。だからといって、他人の意見を聞き流している訳ではないのですが、あまりにも少ない情報のの中で、「555は、どう考える?どっちだ?」って聞かれても、「知りません!」が、正直な答え。だから、詳細の情報を自分なりに吸収できるまで、自分の意見を纏められない性格なんです。だから、中途半端な状況では、どっちでも良いのです。でも、これからは、それって、駄目って事に気付いてきました。少ない情報の中で、判断しなきゃならない事が、この世にはいっぱいあるし、詳細な情報を知れば知るほど、泥濘にはまり、余計に複雑になり、判断できない。要するに、優柔不断です。
だから、今後のテーマは、少ない情報の中でも、自分の意見を固める。情報を集めながら、自分の意見を築く。時には、自分の意見が、変わる事もある。そんなんで、良いのではないか、っと思ってきました。
本当に、日本人は、熱しやすく冷めやすいので、毎回、ニュースで取り上げられ、しばらくすると沈静化する、沖縄の米軍基地問題。米兵が、悪い事すると、「それみろ!日米安保条約の見直しだぁ!米軍は、必要ない!」って言うよね。以前は、日本だけを見たら、米軍は不要。でも、極東情勢の中での日本の役割を考えたら、米軍は必要。どうっちだ?どうしよう?どっちでもいいや!知ってる情報少ないし、どちらの案も一長一短だから、現状維持しかないだろ!ってのが、中学、高校、大学、社会人before MBAの期間を通じて一貫しての考えでした。今、同じ質問をされたら、僕は、「米軍の日本駐屯は必要。憲法9条は変える必要ない。自衛隊だけで十分だし、できれば、自衛隊を解散させて、治安部隊ぐらいに格下げさせたい。PKO/PKF? 世界がなんて言ってきても、憲法9条を掲げ、自衛隊の派遣は反対。逆に、国際紛争に後方支援するのではなく、国際紛争が起こる前に、日本は、イニシアティブを発揮できるように動くべき。PKO/PKF問題は、事前活動を怠った、後処理問題です。目指すは、スイスポリシー+α(GDP威力利用し、国際紛争前に発言していく)べきです。安部さん!
PS2:
男性と女性の中間にあたるのが、ニューハーフっていう性別でしょうか?実は、僕は、両性類に属すると思っています。ゲジゲジまゆ毛だけから判断すると男性ホルモンは旺盛のように見えますが、ブログでHappy日記なんて書いている人をGoogleで検索すると、みんな、女性ばかり。また、僕はパスポート上は、男性ってカテゴリーになっていますが、かなり、女性っぽい性格を持っているようにも感じます。従って、異性に対しても、あまりにも女性っぽい美しい人は、苦手です。あと、女性とラブホテルなんかに泊まったとしても、一切、イヤラシイビーム発せず、何回かは、2人きりで、No sexで、お泊りした事もあります。この話を男性ホルモン旺盛野郎に言うと、「馬鹿か?相手は、絶対、気があるんだよ!」って言うけど、発想自体が、既に、僕と異なります。っと、言う訳で、僕のGenderは、異性の間でも、友情関係は存在すると信じる性別です。

2007年7月27日金曜日

社会人の恩師 Part 4 (MMM部長)


何人でも恩師を挙げる事できますが、そろそろ、これで最後にします。Happiness Diaryの趣旨からズレてきているように感じてきました。まぁ、恩師がいる事は、凄く幸せな事ですが、なにか、日本経済新聞最終ページの私の履歴書っぽくなってきましたので、恩師シリーズは、ここで終了します。
今連載の最後の恩師は、MMM部長。MBA願書を出す際に、推薦状を書いてもらいました。MMM部長は、アメリカ駐在経験もあり、英語が堪能です。MBA受験勉強している際に直属の上司にも相当してましたので、推薦状を御願いしたのですが、至って、快く、「本当に、俺でいいのか?」みたいな謙遜しながらも、一筆推薦状を書いて頂いた。当時の僕は、半年くらいアトランタに出張していたので、E-mailで推薦状の依頼をし、DHLで推薦状を受け取るっという直接会って会話する事できませんでしたが、その素早い対応は、正直、嬉しかった事を思い出します。
今までに登場した3人の恩師に比べ、MMM部長との時間的交流は一番少なく、自分がアトランタに出張していた事もあり、実質、一年未満ではないかなぁ~って思う。だから、会話自体の密度も薄いし、でも、十分恩師に値し、今の自分のMBA勉強生活は、MMM部長なくして語れない存在である。頭があがりません。
以前、Be Professional!!!のブログの中でも書きましたが、僕は、無事に面接も突破し、5月のゴールデンウィーク前には、合格通知を貰う事できました。まさに、ゴールデンな連休を過ごそうと思っていたのですが、合格通知と同封されてた、もう一通のレターが大学より届きました。「555君は、英語の点数が悪いので、TOEFL&GMATを勉強して、8月末までに、要求スコアーまで到達するように努力してください!」って厄介な内容だった。だから、勉強しなくちゃならなかったし、自分の中でも、入学後も英語には苦労するだろうからっと思い、一応、一生懸命勉強したでした。平日も仕事を終え、会社の会議室に居座り、コソコソしてましたし、土日も会社の会議室にて、コソコソしてました。家では、「ぱぱぁ~、あそぼぉ~」に後ろ髪引かれるので、会社に逃亡してました。
しかし、なかなか、TOEFL&GMATの点数が伸びてくれません。次第に、最大の推薦者である人事部も、「今の点数だったら、辞退する。会社代表として送り出すには恥ずかしいし、また、今の状況では、受け入れ側の大学に対しても失礼にあたる。また、555君自身にとっても、ただただ大変だけで、悲しい結果になるだけ・・・」ってそれはそれは、冷たい、泣けるようなコメントでしたが、結局、点数が伸びません。実際には、少しは伸びましたが、要求スコアーには、未達でした。
いよいよ8月末が近づき、僕のTOEFL&GMATスコアーも伸びない為、人事部は、最終決断として、まさかの「辞退」っと判断します。私は、直接、人事部からではなく、MMM部長より「駄目だったよ!」って聞かされました。「あぁ~ぁ~、駄目ですかぁ~」って落胆3秒して、MMM部長には、敗者復活の機会、再チャレンジの機会を強く訴えたところ、MMM部長は、涙目の555に同情してくれて、人事部長と再協議し、また、部署の最高責任者(統括部長)とも協議してくれて、Go ahead!(とことんやって来い!)っという結論になりました。後から聞くに、統括部長(MMM部長の上司)も僕のMBAには、否定的でした。英語を勉強したければ、アメリカ駐在の方が、より業務に密接な英語が身に付く。経営学を勉強したければ、日本語で勉強できる大学院に行くべきでは。っというのが、統括部長の考えでした。
そんな逆風の中、部下の為に、リスク背負って、MMM部長は、説得に回ってくれた事を考えると、もう、恩師ですね。さらに、今の時代、スタッフの慢性的不足は、どこの会社、部署も同じで、555が一年不在にする事により組織としてのパワーは自ずと下がってしまうものです。僕の能力とかの問題ではなく、猫の手も借りたい状況を考えると、人事部長も反対するし、統括部長も反対するし、サラリーマン部長の判断として、無難に、「駄目だ!気分を入れ替えて、仕事!仕事!」ってな結末もありえるなか、部下の為に、人肌脱いでくれたMMM部長は、恩師です。 だって、MMM部長だって、サラリーマンだし、リスク背負う事のデメリットも十分把握できるであろうし、万が一、555が留年、卒業できない!みたいなお粗末カマしたら、誰が、責任とるの?ってちょっとした問題になるよ。そんなリスク背負っての判断を尊敬するし、大感謝に相当する。

自分が、MMM部長の立場になったときに、あかの他人でもある部下の為に、リスクを背負って、逆風を跳ね返せるかなぁ?

PS1:
東京へ旅立つ最終日に、MMM部長に挨拶に行きました。その時の部長のコメントは、「頑張って来いよ!まぁ、落ち着いたら、近況でも連絡してよ・・・・、いや、しなくていい。そんな暇あったら、勉強しろ。会社の事は、この一年、忘れて、没頭してこい・・・。まぁ、そんなに深刻な顔をするな。仮に第一タームで落ちこぼれて、正月明けから、会社強制復帰になったとしても、それはそれで、Welcomeだから。。。」みたいな送る言葉だった。上司として、期待してるよ!って言うと、部下が小さくなっちゃうから、そんな微妙な配慮をコメントより感じた。それに甘んじ、僕は、全然、レポートしなかった。さすがに、6月に入り、MBA生活も、あと3ヶ月になったし、卒業後のサラリーマン生活もあるので、「元気ですよぉ!」メールを送ったところ、「たくましくなって、早く、戻って来い!いっぱい仕事は、用意してあるから!」っとの、半年以上も連絡を取っていないにもかかわらず、暖かいコメントで、本当に、ありがたい。
なんで、転職しないの?って聞く友人がいる。将来的には、転職するかもしれないけど、今は、考えていない。なんか、働くという事は、生活費を稼ぐためでもあるけど、このような恩師の為に、貢献しよう!って思う事に、自分は、働く意欲を感じるのかもしれない。武士だなぁ~って思うけど、皮肉な友人は、「他人の為に働いても、その当人は、何もしてくれないよ!だから、自分の為に、働かなきゃだめだよ!」って言う。それも、その通りなんだけど、恩師がいて、その恩師に、「おっぉ、頑張ってるなぁ」って言われたいが為に頑張る事は、恩師への恩返しでもあるし、自分の為でもあるんだろうなぁ。 今後も、恩師は、ガンガン、見つけていきます。恩師募集中。

PS2:
いよいよ今日は、日付も変わって、7月27日(金)。昨日、26日(木)に、ChangeManagementのFinalExamが終了しました。少し感慨深くなりました。この一年、突っ走って来ましたが、最後の期末テストとなりました。それが終了しました。感慨深いものがありました。
いよいよ本日は、我がチームのBusinessPlan(新規事業案)のプレゼンテーションがあります。チームで、この3ヶ月、結構なパワーを費やしてきました。プレゼンは、3人の外部経験者(ベンチャー社長、実際のベンチャーキャピタリスト等)が、我がチーム含め、クラスメイトの新規事業案を判定します。見事、1位になると、賞金としてチームに50万円がプレゼントされ、それは、好きに使ってよい事になっています。まぁ、勝てたら勝ちに行きたいですが、チームメイトとも、ベストを尽くしてきたわけだから、後は、神のジャッジに従おうと、先ほども、激論してきたばかりです。昨日も、21:00~2:30まで、最後のプレゼン資料の仕上げと、プレゼンのリハーサルを繰り返しました。私のパートは、5分/20分で、相当、繰り返しました。
面白い事に、僕の場合は、英語力がPoorなので、自分のプレゼン担当箇所をすべて、台詞化しました。初めの練習では、9分掛かりました。その後、不要文章を削除し、重複単語を削除し、発声しやすい単語を選択し、文章自体を簡素化したりして、どうにか、5分に収まるように原稿は仕上がりました。5回は、修正→練習→修正を繰り返していると、なにか、脚本家の気持ちが分かってきました。役者の能力、限られた枠、そこでインパクトのある台詞。単語の定義同様、突き詰めると奥が深く、きりがないですが、結構、楽しかったです。
最高に面白かったのは、先日、前もって提出したハンドコピー版(投資家らに事前資料として送付)には、相当、言葉の定義に拘り、学術的、最適単語をセレクトし、仕上げました。最後のプレゼンテーション版は、かなりの言葉を削除し、ビジュアル化させ、シンプルに仕上げました。その分、台詞でカバーするのですが、みんな、限られた時間、自分のキャパを理解し、最後に選んだ単語、イディオムは、日常よく使う、慣れ親しんだ単語となりました。もう、見栄なんて張ってられない。Do our best for making pressentation!!!
このプレゼンが終了すると、クラスもなく、テストもなく、学校に行く必要もなくなります。あとの2週間は、卒論仕上げに缶詰になるだけです。要するに、クラスメイトと教室で会うのも、このプレゼンが最後となります。(卒業式を除く)。なんか、涙腺が緩んできているのを感じる。さて、結末は、どうなる事やら・・・・ とにかく、今は、凄く、Happyだぁ。

2007年7月26日木曜日

社会人の恩師 Part 3 (TTT部長)


僕が、調達に配属された時に、窓口として受け入れてくれたTTT課長。僕が、調達で、6年間過ごす間に、TTT部長へと昇進されましたが、その6年間、どっぷり、 お世話になった恩師の一人である。以前のブログテーマ「広く浅くor狭く深く極めるか?」の中で、広く浅くやろう!っと助言してくれた恩師である。

6年前の配属されたばかりの時は、組織自体が、できたてホヤホヤの新PJであった為、やる事なす事すべてが、Newで、試行錯誤しながら、楽しく過ごす事ができた。 毎年のキャリアーパス面接でも、毎回同じように、「いつでも、海外駐在飛ばしてください。いつでもスタンバイオッケイです」っと主張する僕に対して、 「まだ、早い」、「駐在は、若くして行っても、雑用ばかり。どうせ行くなら、責任背負って赴任した方が面白いだろう!」ってその度ごとに部下を説得させる話術がとても上手なTTT課長である。僕は、いいように操縦されてましたが....

ある時、期間職会議で、海外トレイニー制度への適任者ってのを議論したらしい。毎年、我が部署からは、インド、インドネシア、アメリカとかに人材を トレイニーという形で人材を派遣している。その時は、ベトナム駐在トレイニーが話題だったらしく、僕の名前も挙がったようで、TTT課長は、「555は、 トレイニーで出す人材ではない。どうせ出すなら、駐在員として派遣すべき!」っと言って、リストから除名させたそうです。それを後日、僕に教えてくれました。 阿吽の呼吸とはこの事で、履歴書しか見ない人は、きっと僕をベトナムへ飛ばしたでしょう。本人も、抹殺したい過去を、TTT課長は、何も言わなくても、 理解し、先手を打ってくれるあたり尊敬している。まぁ、ベトナムに行け!って言われれば、任務は全うしますが、本当に、分かってくれています。 やがて、僕は、不安になります。これって、飼い殺しか?ってね。でも、そうではなかったのです。

僕が、“ど~でも♪、いいです~よぉ~♪病”の重病と闘病している時も、優しく相談に乗ってくれました。当時は、TTT部長になってましたが、 2人きりで、会議室で、僕の病を相談しました。他部署にレンタル移籍でもいいので、刺激的な新しい機会を与えて欲しいと、その時は、訴えました。その時のTTT部長のアドバイスは、「そうかぁ~、先輩のアドバイスとして聞いて欲しいが、555は、同じ部署にて経験をもっと積んだ方が、Betterだと思うよぉ~」 って3回くらい連呼していたのを思い出します。その2日後でしたか、今まで仕事をしていた企画部門から現場により近いバイヤー業務へと異動する事となります。 僕は知りませんが、裏の世界で、相当な根回しをしてくれて、僕に新しい刺激的な機会を与えてくれたっと解釈しています。 このスピードの速さも、相当、恩師に値します。新しい部署に変わってからは、それはそれは刺激的な毎日で、徹夜しても終わらない業務でした。辛すぎるよね。

まぁ、振り返るに、会社人生の中で一番充実していたであろう28,29,30,31歳時を彼の元で、ガムシャラに仕事できて、良かったと思っています。 本当に、海外出張にもよく行ったし、「そろそろ、来週くらいから、タイに行ってきますよ」って言うと、「そうか、分かった」って内容も聞かずに許可してくれたし、 出張報告も至ってスムーズに処理する事ができた。当時は、「俺も、一丁前になってきたなぁ~」って過信してたけど、所詮、その恩師の傘の下で、 信頼してもらっていたんだろうなぁ~って感謝の気持ちでいっぱいである。



PS: 7月24日(火)日経朝刊の衝撃的な一面左上記事読みました?
記事の内容は、ニッポンの教育(国境を越えて殻を破る力)とのタイトルで、19~21歳の3名の若者の大学進学について書かれています。灘校卒の北川君は、ハーバードへ進学。麻布校の井口君は、エール大学へ進学。東京学芸付属校の久間さんは、ハーバードへ進学。一番圧巻なのは、久間さんで、国際関係学を学びたいが、生物学にも興味がある。だから、ダブルクレディットできて文系・理系の区分が無いアメリカの大学を選んだんだってさぁ~。凄いやつらだねぇ~。みんな、相当な高偏差値高校卒業しているから、ピカイチのCPU頭脳をもった連中なんだけど、この偏差値エリートの新しい動きってのが、今後を予測する時にKeyとなりうる。

今までも、日本の高等学校を出て、アメリカ大学に進学する生徒はいたが、この新しい動きは、過去の帰国子女、インターナショナル生徒とかではなく、普通の高校からのチャレンジが増えている傾向にあるらしい。まだ、大きな流れとなる初流だが。グローバルに見たときに、EUなんかは、米国と対抗するように、2010年までに欧州高等教育圏を構築しようと試みている(ボローニャプロセス=どの国で学んでも、学位、単位の転用が可能)。もう、視野がグローバルっていうか、国境の観念がそこにはない。日本の大学改革では、各大学は法人化されて、大学にとっては少子化の元、生き残りを掛けた採算重視した取り組みがされているが、日本国内の予算・学生の奪い合い、既得権確保に終始する日本の大学に対し、日経新聞は、警告を鳴らしている。

以上から555が個人的に思う事は

20年後、政治の世界で、中国かイニシアティブ(主導権)を取るか、日本がアジアの中でどう地位を確保するかってな現代の議論そのものが、チャンチャラ、時代遅れって感が否めない。政治・経済で主導権をどちらが握ろうが、各国のエリート達は、その枠を超えて交流し、良いものに共感し、(例えば、Apple社のIphoneは、そんな壁を突き破る)、独自のネットワークで生きていく。日本の社会人の「どこの大学でたの?後輩ジャン!学閥入れてあげるね!」なんて、もう絶対に、井の中の蛙以前のアンモナイト化するだろうね。あのギターの神様こと、ジミーヘンドリックは、「国家に忠誠心なんか持つくらいなら、地球に持て!」って言ったらしい。20年後には、国家のコンセプトすら薄れるぞ!(一応、格好付けて、ジミーさんを登場させましたが、私も12歳の時に、フォークギターを練習しまして、滝廉太郎作・荒城の月は、コード暗記して弾けますから・・・、2週間くらい・・・切腹!)


フラット化する世界(The world is flat. トマス・L・リードマン著)の書籍の中では、ベルリンの崩壊に始まり、Web1.0(個々のPC・パソコン通信)の世界→Web2.0(インターネット時代、24時間稼動)の世界では、国境はなくなり、時差すら存在しない。っと怒涛の勢いで変化するビジネス・生活環境を僕ら凡人達にシグナルとして教えてくれている。日経新聞が記事とした若者3人は、その先陣を切っている勇者で、僕達は、彼らを尊敬しないといけないね。よく団塊の世代は、20年離れた世代を、「最近の若者は・・・」っと言って、自分達の優位性を仲間同士で確認しあった。冷笑された世代は、さらに20年離れた世代を、「俺らも言われたが、最近の若者は・・・・」って同じように、優位性がある事を確かめ合って、傷を舐め合っていた。そして、僕達の世代は、「俺達の世代は、本当に駄目だったけど、最近の若者達は、格好良いねぇ~。奴らなら、後世を任せられるねぇ~。これで、俺達は、安心して老後を過ごせるねぇ~」って変わる気がする。最近のできる若者は、凄いよ。彼らは、敷かれた線路主義者ではなく、時代を切り開いている。奴らは、凄いよ。だから、僕達世代は、40歳になったら、課長になって・・・みたいな優しい時代から、課長昇進最高年齢は、35歳ってな制度がいきなり始まり、気付いたら、36歳だったみたいな可愛そうな世代にならないように、奮起しないといかんね。。。

ってな事で、できる事からコツコツと、背伸びせず、あせらずに、Step by stepに、他人と比較せず、毎日、精進する事が大切って事ですね。は~ぃ!

2007年7月25日水曜日

社会人の恩師 Part 2 (I I I 部長)


社会人になると、いろいろと複雑な、大変な、厄介な出来事が起こるもので、そんな状況下において、適切なアドバイスを与えてくれたり、叱咤激励をしてくれる恩師みたいな人が存在する。まさに、僕にとって、厄介な出来事が発生しました。 僕の性格上、新しいこと好きですし、頑張って、石の上にも3年は耐えるのですが、3年を経過すると、一気に厄介な病気に掛かる。(病名=どうでもいいジャン病)。
奥さん曰く、この“どうでもいいジャン病”が、厄介でしょうがないらしい。ある時まで、情熱で鼻息荒い旦那が、ある瞬間から、「あれ?今日は、定時で退社なの?どうかしたの?」ってな質問に、「どうでも~♪、いいですよぉ~♪」ってな回答だから、たまげるし、こけるし、ムカつくし。。。僕の言い分としては、人に2倍の時間を費やして、無呼吸、無給水で全力疾走してきた訳で、3年経過するということは、通常の6年分を消耗している訳で、そりゃぁ~、仕事に飽きるわぁ!ってのが主張だけど、まぁ、これも、勘違い程々しい、天狗発想から来る馬鹿思考としか言いようがない。
そういう時に限って、上司との関係も上手く行かない。天は試練を与えるものである。やる事なすこと、直属上司に認められず、それは腹の立つ事ではあるが、冷静な直属上司は、そんな555のどうでもいいジャン病をお見通しなのかもしれない。 そこで、登場してくれたのが、他部署のIII部長。もともと、他部署ではあるが、社内業務の延長線上、一緒に仕事する事も多かったし、気さくな方なので、OPENに悩み相談に乗ってくれたりもした。でも、他部署の部長と、一般ヒラ社員との階級社会における礼儀は、心得ているつもりで、直接、相談した事は今までなかった。
そのIII部長の部下でもあるMMM課長と、タバコルームで、「最近どうよ?」ってな質問に、駄目社員な僕は、「最近、駄目っすよ!一層の事、拾ってください!」みたいな本当に駄目回答をしてしまった。すると、MMM課長は、「内の部署に来いよ。引っ張ってあげるよ。まずは、III部長に聞いてみるけど・・・」ってグイグイ展開していった。「ちょっと、マジで、こまるっすよ!」ってな、階級社会において上位ランク者に対し、また、年配者に対し、敬語も使えない駄目回答すると、「全然、気にする事はない。III部長と会話して、最終判断するのは、555次第。聞いて、相談して、損はない!」っと、なぜか、III部長、MMM課長、555の3人だけで、会議室にいる。 III部長は、「そうか、悩める年頃だねぇ~。うちに来いよ。まぁ、一年間は、日本で業務覚えたら、2年後には、イタリアでもアメリカでも好きなところに飛ばしてあげるよ。でも、555部署も、出さない可能性があるなぁ~。そしたら、重役に言って、一本釣りするよ。どうだ、うちに来ないか?まぁ、じっくり、考えて、答えを教えてよ。うちは、Welcomeだよ。ってな言葉を頂く。この出来事は、急展開ってのも驚いたけど、稀なキャリアパスを提示してくれて、他部署からも、まぁまぁ、評価されているようで、嬉しく感じたし、僕の優柔不断な性格に、時間的ピリオドを与えてくれて、凄く感謝するMomentでした。
その後は、すぐに、自分の直属上司、さらにその上の上司(TTT部長)と相談し、自分の悩み、希望、将来像を会議室という密室で相談した結果、他部署のIII部長へはお断りする事を最終決断する事になる。まず、E-mailで、お断り文章を送信したところ、感動する回答が帰ってきた。「555君を見ていると、自分が30代の頃を思い出す。仕事に情熱的で、自分のやりたい方向ってのも見えてくる。その中で、上司との辻褄あわせに難航し、時間を奪われ、しっくり来ない事も想像できる。誰もが経過する道。今回の555君の判断を尊重するし、それが、ベストの回答でもあると思う。頑張ってくれ!」みたいな、正直、今でも、そのメールは永久保存として保管している。ありがたい、お言葉だ。
その後、III部長のデスクを訪問し、「この度は、どうも、ありがとうございました!」みたいなお礼をしに行った際に、まぁ、気さくなOPENな方なので仕方ないが、フロアーじゅうに聞こえる大きな声で、「おう、悩めるホープ。大いに、悩むべきだよ!それにしても、あと、もうちょっとだったんだけどなぁ~悔しいねぇ~」みたいな豪快トーンでゲラゲラ笑ってくれたのが、また、嬉しかった。 III部長とは、その後も、仕事を通じて、お付き合いがあり、社内で会うたびに、「うちは、いつでもOPENだから」っと言ってくれる。
僕が、ながく海外拠点で出張していた時も、そこにIII部長は出張で来られ、会議なんかで、人出不足で、どうにかしないといかんぞ!ってな深刻なテーマを論じている時に、「人は、どうにかできるだろぉ~」ってなコメントを、アイコンタクトで視線を送りつつ、しつこく笑顔で主張しているシーンなんか、可愛いオジサンって感じがして、相当な恩師だよね。
こんな豪快な、トンチの効いた、ナイスな部長に、僕もなれるかな?

PS:
昨日のブログにも書いたけど、はやりテスト週間が始まると、忙しくなるね、さすがに。今回は、それに加えて、ビジネスプラン(新規事業案)のプレゼンもあるため、その総纏めとプレゼン資料つくりで、追い討ちをかける。先週の土日は、寮のラウンジにメンバー全員が缶詰になり、一気に資料作りを仕上げた。朝から晩までのブ通し。ピザとか宅配してもらって続けた。今夜も、細部の詰めで、21:00~3:00まで、どっぷりっと議論。もうココまで来ると、ファイナンスのキャッシュフロー創出策や、マーケッティング手法とかを議論する事よりも、資料に訴える「単語選び」に時間を要している。
面白い事に、他人からしたらどーでーもーいーでーすーよぉ~♪に思える英単語を巡り、議論は白熱する。ここでは、ReliableよりもRedundantの方が学術的だとか、Sophisticateだぁ、いや、Provenだぁ、いや、High-Qualifiedだぁ、絶対、これだぁ!って各国代表者の気分で白熱する。以前、言葉の定義で金田一春彦氏をブログで取り上げたが、まさに、その世界。Prideではなく、ここでは、Self-Respectが適してるのではないか?いや、Self-Esteemの方が、格好良いだとかね。
これって、それぞれの文化、歴史、価値感、感性を繁栄しているから、面白い。そんな事を、アメリカのとある女性と以前、メール交換したら、面白いサンプルを提示してくれた。Conservative(保守的)って言葉をどう解釈するかって事例。その逆のProgressive (革新斬新的) ってのは、だいたいがアメリカの方向を向いているからベクトル角度は近いものだが、保守的の解釈は、その国、歴史、育った環境、個性を反映するものに思える。
とあるアメリカにいる女性は、さすがに賢い事に、日米の保守的思考の相違をSEX避妊に対しサンプルしている。これは、分かりやすいメタファー(直喩)なので、パクラセて貰います。日本では、歴史的にも、明るい家族計画は、広く文化として普及している為、避妊に対して比較的オープン。しかし、その日本でも、結婚前でのデキチャッタは、世間体を気にする余り、なにか、恥ずかしい雰囲気を未だに与える環境が出来上がってしまっている。実際には、30%以上の日本人結婚の婚約理由が、妊娠にあるにも拘らず、未だに、結婚前の妊娠を良しとしない人は、要するに「なんで、コンドームを着想して、ちゃんと避妊をしないんだぁ!」って訴えるのが、日本的保守思想かな? 
一方、アメリカは、避妊は、宗教上からタブー。ましてや中絶手術は極タブーどころか、未だに、大統領選挙の票獲得マニフェストに詠われ、州法律は、その改訂でニュースになる。その為、アメリカの保守層は、避妊は、神の御加護に逆らうもので、あってはならないと、相当な迫力でデモする。そんなアメリカ的保守思想は、できちゃったカップルに対し、「良かったわねぇ~。神様の御加護だねぇ~。おめでとう!」って事になる。美しいね。
しかし、アメリカの革新思想家は、ニューヨークのビジネス社会でバリバリ出世を目指し、隙あらば、会社を買収しようと野心的な奴で、ノースモカーで、フィットネスに通い、自己管理を徹底する事で自分を美化する。アメリカ的革新思想は、できちゃった結婚に対し、「凡人だ。自分の人生設計も出来ないやつに、未来はない! ちゃんと、コンドーム使えよ!」とかって冷たい視線を送るんだろうね。
要するに、僕の結論としては、結婚前のデキチャッタ事件は、日本的保守思考=アメリカ的革新思考って新しい公式が成り立つ。どう?ある国では、保守的なんだけど、ある国では、革新的っと評価される。この世に、万人に通用する辞書は存在しない!って事が証明できたかな。。。。(我ながら、うまく、まとまった。ホッ)

2007年7月24日火曜日

社会人の恩師 Part 1 (SSS課長)


社会人になると、いろいろと複雑な、大変な、厄介な出来事が起こるもので、そんな状況下において、適切なアドバイスを与えてくれたり、叱咤激励をしてくれる恩師みたいな人が存在する。誰にでも、そのような恩師が、一人二人といるのではないでしょうか?仲人してくれた人なんてのも、その恩師に含まれるだろうし、その恩師がいっぱいいると、その人の社会人人生(ビジネスライフ)も、幸せで豊かなものとしてくれる事でしょう。僕にもそのような恩師みたいな人が数人いて、感謝の意を込めながら、回想してみたいと思います。
僕は、入社して半年もしないうちに、(当時は、アジア事業採算って部署で、オールアジアの合弁会社の収益を纏める間接部門にいました)、マレーシア出張を命じられます。まぁ、このブログでは書くには、相当恥ずかしい話ですが、設計問題が発生したので、その修理人工として派遣されます。2週間くらいの出張でしたが、初めての海外出張でもありましたし、緊張していましたし、今も忘れる事のできない、貴重な経験でした。その初出張から、半年もしない内に、偶然にも、マレーシア営業担当となり、3ヶ月に一度くらい、市場調査、新車導入後調査、満足度調査等で、よくマレーシアには出張しました。その受け入れ先となる合弁会社に出向していたSSS課長が、僕の恩師の一人になります。若干24歳の僕からしても、年齢もだいぶ離れていましたし、移動中は、彼の車にて、運転手含めて3人で移動する事が多かったですが、話す会話もなく、相当、気まずい雰囲気の中、神経を使った記憶だけが蘇ります。
大学4年の夏休みに、僕は、バックパッカーとしてマレーシアを訪問しています。その時は、貧乏+冒険心から、クアラルンプールの駅周辺で敢えて野宿しました。そこの野宿ポイントを、駐在員のSSS課長と冷房ガンガンの車窓から一年後に、経過した時に、そのコントラスト(対比)の大きさから、少し大人になったなぁ~って感じたのと、もう学生じゃないなぁ~ってのを痛感するシーンをマレーシア初出張時に経験しています。
営業で出張した場合、最終日には、報告会を開き、出張の成果、感じた事をプレゼンしてこい!ってのが、日本の上司からの命令でした。それが、結構な重荷で、出張に行く前から、プレゼンのシナリオを頭に描き、出張時に、そのシナリオどおりに行かないと、焦ってました。そんな毎回の出張時に、頑張ってプレゼンするのですが、マレーシア駐在員のSSS課長は、いたってクールで、帰りの車の中で、相当な駄目出しをしてくれました。その時の話が、MBA面接時のネタとしても活用されたので、SSS課長には、感謝するのですが、彼とは、もっと、深い関係があるのです。最終プレゼン終了後のホテルに向かう車内では、「TOEIC何点?650点?うぅ~ん、650点って言えば、平均以上でしょ。それでも、あのレベルかぁ~」、「外大出てるんでしょ?もっと、勉強しないといかんでしょ!」、「営業は、聞いて話してナンボだよ。555は、頑張ってるのは、伝わるけど、何を言いたいのか分からない。もっと、要点を絞りなさい!」っとか、これって、24歳の僕には、泣けるほど、苦しいシチュエーションだよね。 プッチン切れた場合、刺しちゃうって事も考えられるけど、そこまでできる度胸もないのよね。
ある時、SSS課長が、マレーシアの高級イタリアンに晩御飯を2人きりっで食べに行こう!って誘ってくれました。当然、拒絶したかったですが、「いいですか?」なんて八方美人演じちゃって、「よぉ~し、2時間の辛抱だ。そしたら、ぐっすり寝られる!」って心に近い、ディナーをしました。その時でした、SSS課長から、彼の家族の事、悩める息子がいること、555みたいに賢くない事(えへへへ)、等々、赤裸々に語り始め、結構、うれしかった事を思い出します。SSS課長は、相当、ワインに酔ってましたので、僕の事も、相当、褒めてくれました。「本当に、555は、不器用だよね。でも、好きだなぁ~。頑張れよぉ~!」なんて、エールもくれたりしました。
時は過ぎ、マレーシア&シンガポール営業を1年間で終えたところで、僕は、人事異動により、ベトナム担当となります。本当に、履歴書から抹殺すべき項目を、人事&上司は、見つけ出し、適材適所みたいに、ピンポイントに指名されました。自ずと、化けの皮は剥がれる物で、ベトナム現地社長からも、移動の車の中やホテルでの会食時に、今度は、英語ではなく、ベトナム語の駄目出しを、右耳から聞いて、すぐに左耳に抜けるがごとく、聞く事となります。当時は、知りませんでしたが、SSS課長と、ベトナム現地社長は、お知り合いで、ベトナム現地社長の「なんだ、555は?使えんぞ!マレーシアで何を教育しとったんだ!」ってな愚痴に対し、SSS課長は、「555は伸びる。機会を与えたら、彼は、化ける。伸びないのは、機会を与えない誰かさんの責任だ!」っと言って、抵抗してくれた事を聞きました。泣けますね。
時は過ぎ、いよいよ、合計3年間の東南アジア営業生活も幕を閉じ、調達関係部署への異動となります。その決断を僕に迫ったのは、当時、マレーシアより帰国したばかりのSSS課長でした。うちの会社のいいところは、社員の意見を尊重すると言いますか、「異動のチャンスがある。調達部署だ。アジア関係を強化しようとしている。面白そうだ。どう考える?考えてくれ!」ってな考える時間が与えられる。だから、調達はイヤッス!営業しまっす!って回答すれば、営業を続けられたっとも思える。しかし、当時の営業部隊は、97年バーツ切り下げショックから5年経過していたし、アセアン主要国には、30代の若手営業マンが駐在員として派遣したばかりで、このまま順番を待っても、自分に回ってくるのは5年後かな?って想像して、また、業務の視野を広げる意味でも、調達へ異動する事を決意する事となる。
SSS課長へ、伝えたところ、「そうか、その意見を尊重する。頑張れよ!」って応援してくれた。そんなかんだで、東南アジア営業部の555送別会が開催された。その時、SSS課長は、出席してくれて、出席者の中で、最高ランク者として送別のコメントをくれた。それが、ジーンと来て、今も忘れられない。 次のような事を言ってくれた。 「555は、入社早々、市場の後始末で、初めての出張で、マレーシアに飛ばされ、555の中でも、マレーシアは、サラリーマン生活を振り返ったときに、思い出の地になる事でしょう。僕にとっても、マレーシアは、5年駐在した、思い出の地です。そこでの共通の思い出として、555のプレゼンを思い出します。本当に、何を言っているのか分からなかったけど、伝えようとする強い意志だけは感じた。その姿を今も鮮明に思い出すし、うちの会社にも、こんな情熱的な若手社員がいるもんかぁ~って、尊敬の念を抱いた事を思い出す・・・・(涙)(涙)(涙)って話している最中に、泣き出しました。僕としては、あれれれ?なにが起こったんだ?って想像もしない出来事に、オロオロしちゃったけど、今、振り返るに、部下の送別会で涙できる上司って凄くないですか?恩師に値します。 今までの人生で、仕事で泣いてくれた上司は、最初で最後だろうなぁ~。
その後、SSS課長は、部長に昇進され、部署が変わった今でも、555の事を、遠くから応援してくれています。僕が結婚した際には、偶然、社内のエレベータで遭遇し、結婚報告をすると、その場で、「カミさんと美味い飯でも食べろよ!裸で申し訳ないけど・・・」って、財布から1万円を出して、くれた事も、印象深い出来事でした。
本当に、SSS課長は、恩師だよ。僕も、部下の門出を涙で送ってあげられる上司になれるかなぁ?


PS:
まぁ、今回のテーマは、英語能力の向上ってのがキーワードになりますが、実は、今週は、期末テスト週間です。なので、久しぶりに7月23日(月)18:00~7月24日(火)2:00まで、寮にある図書館で、ぶっ通しで勉強しました。試験は、3時間与えられて、その中で、自分の施策、方針等を英作文で訴える趣旨がメインになりますが、僕は、3時間では毎回、足りないので、フライングして、前日に準備しておく訳です。それでも、本番は、予想外の質問が出たりして、また、シナリオを練り直したりするので、3時間は、あっという間に過ぎちゃうんだよね。そこで、テストの結果は、どうでもいいですが、一年前に比べたら、英語力が伸びたなぁ~って自分で思うシーンに出くわしました。
MBA願書提出する前は、自分がどのような人間であるか、何を勉強したいのかってな英語論文提出を入学者選考目的で課せられていました。今思えば、1,000単語書くのに、どのくらいの時間を費やしたか?を思い出すと鼻血がでます。2ヶ月くらい費やしましたかね。(実は、既定の1,000語(words)を、勝手に原稿用紙1,000字(Letters)だと解釈して、終わったと思ったら、それは、まだ、200文字ほどしか終わってない事に気付かされて泣いた。あの時は、本当に、とあるアメリカに住む女性に、添削やら補強やらお世話になったなぁ~って感謝だし、今ほど、何を書いていいのかすら、頭にイメージができなかった。英語の前に、日本語思考が、全然駄目だった。)それが、今では、2時間くらいで、1,000単語位なら埋める事は容易になってきた。これって、かなりの進歩だと自分では嬉しく思っています。これって、凄いよ、進化だよ。猿が、木の枝で絵を書くぐらいのインパクトです、自分には・・・。
さて、とある読者から、電話で、「あれれ、ブログの内容見てると、555は、相当、余裕あるねぇ~」なんて、ふざけた事、言っていた人がいたので、ムカついて、今日は、勉強に燃えました。反骨心からではありません。ブログの記事は、10日間分のストックがあり、暇な時に、だらだら書いているだけ!僕だったら、「時間の使い方が上手くなったねぇ~」って動機付けするコメントを言うのに、全然、駄目だって思いました。人の心を動かす言葉は、北風じゃぁ駄目っす。冷やかしでも駄目っす。太陽じゃなきゃ!
Calm down, or 555 will lose the happiness!!!

2007年7月23日月曜日

Life is..., so ....! Life is money, so earn it?


人生って、なんだろうね。ある人は、人生は、$$次第、だから、ビックマネーを掴まないと・・・。っと豪語する。でも、アジアの国には、富の象徴である金(Gold)を仏に贈呈する事で、祈る人がいる。なんの意味があるのかな?健康でいられる事の感謝として、手に入れた富を戻すのかな?それとも、富を得たいがために、祈るのかな?
以前、新宿ホームレスのボランティアの件をブログした事ありますが、そのクラス(Global Citizenship)では、それ以外にも、自閉症の子供達と御殿場乗馬合宿、障害児・虐待児とのアムウェイ主催小錦アロハコンサートへの参画っと、いろいろな機会を経験する事ができました。一応、小錦にも会えましたし、彼の奥さんは、相変わらず、綺麗な人だなぁ~って感じました。やっぱり、ハワイはいいよ、アロハー♪だよ!カメハメハだよ♪!
御殿場へは、土日の2日間をつかい、自閉症児と一泊し、乗馬を体験させる企画に参加しました。ついでに僕も、人生初の乗馬を経験する事ができました。自閉症は、英語で、Autismって言うんだけど、自閉症の僕のイメージは、静かで、ジーッとしていて、喜怒哀楽が激しい・・・って思ってました。実は、自閉症は、脳の発育に障害があり、ジーッとしているのも症状のひとつですが、その障害によって、手足が自由に動かなかったり、言葉を発せないなどの障害を持つ場合もあります。

私が担当した男の子は、13歳ですが、自分ひとりでは、トイレができず、風呂も入れず、言葉も発せず、食事だけは、スプーンを持たせれば、散らかしながら、ガツガツたくさん食べる少年でした。会話もできないので、彼が何を考えているのか分かりませんし、歩行もまっすぐ一人では歩けません。その子と一日過ごし、アイコンタクトもできない状況ですが、手をつなぎ、抱き合い、彼の体温を感じることで、愛着が沸いてきて、だんだんと、彼の仕草から、気に入ってないな!or 楽しんでるな!ってのが読み取れるようになってました。いい勉強&経験になりましたが、親切なことをしてあげても、当然、彼からの見返りを期待することもできませんし、それ自体が、ナンセンスの馬鹿げた期待だなぁ~ってつくづく、感じました。最終的には、彼は、乗馬しましたよ。感動的なシーンでした。正直、喜んでいる様子には見えませんでしたが、彼にとっても、貴重な経験ではなかったかなぁ~って思っています。

その授業も、先日、最終日を迎えました。すべての生徒が、皆の前に立ち、3~5分くらいの授業体験を通じて感じた事、得た事を発表しあうかたちで、ファイナルセッションを終えました。自分の中でも、社会に貢献したい!どんな小さなことからでも!っとか、以前、ブログに書いたような事を、このクラスを通じて、感じたことです。今回のブログは、クラスメイトの感動コメントを下記に記載します。

彼のコメント(男性 from Europe)
多くの人が、Life is jouney, so enjoy it! Life is challenge, so meet it!とか、人生に挑戦し、楽しみ、意思を持って戦っている。そんな中、Life is too much pain, no hope & distess (人生は苦痛ばかり、夢なんかない、嘆きばかり) っと言う人、また、それすら言えない人、考えられない人、考える事にハンディキャップを負っている人を目の当たりにしたときに、****彼自身、涙で言葉を失う ****、自分はラッキーだと感じることしかできない。それが**** Sorry(むなしい).

彼のコメント(男性 from China)
よく頭の良い人は、自分に何ができるか?自分の存在意義は何なんだ?って論理的に考えて、何もアクションを起こせない。重要なのは、考える前に、アクションを起こすことで、老人に席を譲る事でも、コンビニの募金箱にお金を入れることでも、どんなことでも、まず、実践から始めるべきである。それが、できない人は、本当の、頭の良い人間ではない。Don't think too much, just do it!

彼女のコメント(女性 from China)
6歳の時住んでいたチベット近郊で、夕方、自転車の乗り方を友達と練習していた。その中で、12歳の知能障害の男の子がいた。みんな帰るときに、誰も送っていかないので、私は、2人乗りして彼の家まで送っていって、相当、遅くに帰宅した。直接帰るのに比べて、30分くらい、遅くなった。心配した両親は、帰宅するなり、「どうして、遅くなったの?」って心配していた模様で、「・・・君を家まで送っていってあげたの!だから、遅くなっちゃった!」って6歳の少女が、胸のいっぱいの“いい事した充実感”を抱きながら答えたところ、父親は、ひどく叱り付けた。「今後、一切、彼に近づくな!分かったか!」って。彼女は、何に怒られていたのか、分からなかった。今は、言葉に表せないけど、今回のクラスを通じて、改めて、どうあるべきかって考える機会になった。

この授業も、いよいよ終了しました。本当に、いよいよ、期末ファイナルテストと、卒業論文だけって事になってきました。いろいろな生徒と仲良くなれて、ネットワークがグローバルに広がった事、また、今まで接しなかった障害者らに出会うことができて、自ずと視野が広まったなぁ~ってつくづく思います。これって、ファイナンスだとかの公式なんか、すぐに忘れちゃうけど、結構、記憶に残る衝撃がいっぱいあったのも、こんなクラスメイトのお陰だなぁ~って感謝を噛み締めて、ラスト1ヶ月を充実して過ごしたいと思います。

PS:
中国から来ている女学生のコメントは、自分が親として、しみじみと重みを感じる。彼女の親の気持ちも分かるし、これって、日本の親も同じ態度を取るんじゃないかなぁ~って思います。ましてや、6歳の娘ってなったら性的な嫌がらせとか、または、命にかかわる犯罪とかに巻き込まれるのも心配だしね。さて、自分の息子が、素直な何も知らない純粋な気持ちで、知的障害者や、身体障害者を家に連れてきたら、自分だったら、なんて教育するかな?難しいね。これって、本当に、難しいね。ギュッて、いっぱい抱きしめて、褒めちぎって、その連れて来た子と晩御飯一緒に食べれたら、最高なんだけど、それは、現実にできるかな?難しい問いだよね。
そんな事を、奥さんに、電話で聞いてみた。長男や次男が、公園で遊んでいて、障害者と友達になったら、なんて教育する?って。彼女は、即答で、「障害者だから、傷つけたり、怪我をさせないように、まず、接し方を教える。障害者を連れてきたからって、叱る事はない。それよりも良い経験の機会でもあるし、そんな優しい心を持った子供を褒めたい!」だって。やっぱし、僕は、良い奥さんっと結婚しましたね。えへへへ。

2007年7月22日日曜日

プライド高い!は、褒め言葉?


もう誰のコメントか忘れてしまったが、「天狗の人は、大海を知らない、井の中の蛙だ!」ってな事を言っていたのを思い出す。また、誰のコメントか忘れてしまったが、あくまでも自分の位置を把握でき、謙虚でいる為に、例え話として、エベレストの存在を知っている、知らないは大きな意味がある。っと言っていた人がいた。決して、エベレストに登頂しろ!とか挑戦しろ!とか言ってるのではなく、そんな山があるって存在を知っているだけで、今、登っている山の位置付けを把握できるらしい。今の僕は、とある山に登山中(挑戦中)だか、他の生徒に比べたら、まだ3合目くらい、いまだ、見晴らしは悪いわなぁ~。
僕は、自分を分析するに、それでも、相当、自分を愛している。誰よりも自分のことが大好きで、可愛がっている。自分では、天狗だと思ってないけど、自己愛に没頭するあまり、自尊心は高いと自負している。だって、この世で一番自分の事を知っているのは、僕以外にいない訳だから、時に律し、時には、最大限に褒めてあげたいよね。身長が、もっと高くなりたい!っと思った事もないし、整形したいっと思った事もない。大学時代のファミレス会話を思い出すけど、ある時、「コンプレックスとかないの?」って聞いてきた人がいるけど、なにかなぁ~って相当悩む。だって、生まれ変わるとしたら、また、今のままでオッケイだと思ってる人だから、本当に夢がないし、ある意味、不細工なんだけどナルシストってな一番太刀の悪い人間類かもしれない。
相当、自分を愛しているし、一見、パーフェクトに見えるが、それは、ガラスのハート(女か?)。小心者で、臆病で、石橋叩き割りたいくらい慎重派。日本語の会話の中で、歴代の彼女の事を表現するときに、「昔のおんながさぁ~」っとは決して言う事ができず、正直、相当仲良くなっても、名前なんか呼び捨てで呼べないッすよ。「僕と付き合ってくれた彼女さんが・・・」って言うと、比較的新しい友人は、「仮に555が苦労の末、念願かなって、その彼女が付き合ってくれたとしても、付き合ったのは事実なんだから、大学時代に付き合った彼女が・・・って言えばいいじゃん!」って日本語の正しい使い方をレクチャーしてくれる。
そんなカンダで、大学1年生の時に、池フクロウでデートしてくれた彼女さんが、「555は、Pride(プライド)高いよね?」ってボソッと言ったのを思い出す。ガラスのハートだって言ってるのに、外見で絶対判断されたに違いない!少し、ショック。それ以来、Pride(プライド)ってなんだ?って、辞書選びをする時に、いつも、この単語を引いてから、購入を決意している。
早速、僕が大学受験で多用した大修館書店のGenius辞書を調べてみると、誇り、うぬぼれ、自慢の種、自尊心、傲慢、横柄が、Prideの意味らしい。否定的な訳が並ぶ。プライドが高いねぇ~っをどのように解釈したら良いのでしょうか?日本では、完璧、否定的領域だね。横柄な奴だ!他人の言う事を聞かない!うぬぼれ野郎!とかね。
それでは、かすかな望みを抱きつつ、訳語のひとつである「自尊心(Pride) 」は、ポディティブ意味か、ネガティブ意味か、日本語国語辞書で検索した結果、「自分の人格を大切にする気持ち。また、人の思想や言動などに自信を持ち、他からの鑑賞を排除する態度 」ですって。ややこしくない?前半は+イメージだけど、後半は-イメージ。誠にややこしい。こんな辞書使ってたら、一生、英語力は伸びない気がしてならない。最近、英英も時々使うけど、Prideを英英検索した結果は、
1)
Feeling of deep pleasure or satisfaction derived from one's own achievements, the achievement of one's close associates, or from qualities or possessions that are widely admired.(要するに、達成感とか、賞賛された事からくる喜び、満足)
2)
Consciousness of one's own dignity (自分品格の認識)
3)
Feeling of respet that you have for yourself (自分自身への尊敬の念)
絶対、英英の方がシックリ来るし、この英語解説をどう訳せば、うむぼれや傲慢などのネガティブ語が日本の辞書に存在するのかが、本当にムカついてくる。日本人は、本当に、根っからの悲観的、被害者主義意識が高いような気がしてならない。悲しい事です。
っで、最後に、同級生に Be proud of myself のイメージについて聞いてみた。基本的には、ポジティグに解釈されるらしい in USA. ただし、度を越すと、ネガティブへと変わるとの事。ここでも、バランスって話になるんだね。最終的には。
っと言うことで、言語学者でもない私が、金田一春彦を気取って、述べてみました。結論として、今後も、自分へのプライドだけは、維持していきたいと強く思っています。息子達にも、「Be proud of yourself. Take pride in your possession!」って教えて行きたいと思います。

PS:
大学一年生の時の彼女さんは、当然、僕よりも頭いい子ですし、外大ですし、勉強熱心で、英語の教職課程も履修していたので、きっと、本当のPrideの意味をアメリカ版(英英辞書)にて解釈していただろうと信じます。だから、あの時の「555は、プライドが高いねぇ!」っは、僕への尊敬の念で、無心で発してしまった言葉だったんだろうと解釈しています。本当に、死ぬまで、楽観主義者は楽観主義者ですね。アーメン。

2007年7月21日土曜日

写真が残す真実


左の写真は、Robert Capaを一躍、有名な戦争フォトグラファーとした一枚のスナップショットである。1936年、スペイン内戦時の一枚の写真であり、キャパが22歳の時である。彼は、ハンガリー・ブタペストのユダヤ系両親の間に生まれ、彼の生涯は、戦争と共にあったといっても過言ではない。
0歳の時に、オーストリア皇位継承者夫婦がボスニアの首都サラエボでセルビア人青年に暗殺される事件がおき、これを機に、ヨーロッパは、第一次世界対戦へと突入する。5歳のとき、ハンガリーは、第一次大戦の敗戦国となり、7歳の時には、反ユダヤ法が制定されている。この法は、第一次世界大戦末期に萌芽した社会主義革命や、敗戦ダメージをユダヤ人に転嫁する顕著なもので、ユダヤ人への大学入学を制限(締め出す)する法律であった。彼は、17歳で、ハンガリーを後にし、ベルリンに向かう。当時のベルリンは、ハンガリーから亡命した人々が大勢いたそうだ。当時のドイツは、世界最先端を行くカメラ技術(ライカ)の進歩と共に、写真家がジャーナリズムに組み込まれ、フォトジャーナリズムの方法論が確立されていく過程にあった。
しかし、ご承知の通り、ヒトラーの国民社会主義ドイツ労働党(ナチ党)が躍進して、総選挙で勝利。キャパは、19歳にして、パリへと向かう。その道中、コペンハーゲンにて、スターリンによって国外追放されたトロッキーの演説を聞き入る観衆の中で、ポケットに忍ばせたライカにて撮影した「演説するトロッキー」が、彼の事実上の処女作となる。31歳の時には、あのノルマンディー上陸作戦をアメリカ側軍隊に加わり、同行撮影している。ピンボケしたその写真が、戦闘の激しさを十分、伝えている。
だが、1954年(キャパ41歳)に、仏領インドシナ(現ヴェトナム)にて、フランス軍兵士を追って、ハノイ近郊の堤防に沿った野原へ入る際、地雷を踏み、彼の生涯は幕を閉じている。戦争と共に歩んだ人生。十分と言っていいほど、激動の時代を最前線で生きた人生である。
なぜ、今回、Capaを取り上げるかというと、先日、神田&神保町周辺の古本屋をさ迷っていた。なにか、Happinessを言葉によって、論理的に定義するよりも、実は、写真、絵画などから、共感できるPicturesを集めたら、それが、自分にとってのHappy Worldになるのではないか?っと思って、古本屋街を散策しました。その時、偶然にも、Capa's Eye ってな彼の写真集を発見したので、Happy Worldをそっちのけで、熟読し、その本を購入した。
僕とCapaの出会いは、大学3年生の頃で、オンボロアパート(26,000円/月)の隣に住んでいた中国語学科のM君の影響が大きかった。彼は、結局、ジャーナリストの道を選択し、某有名新聞社と某有名放送局の2社から内定を貰い、悩み、結局、放送局へ就職した。彼の部屋には、Robert Capaや開高 健の写真集が一杯あったし、ライカのオンボロカメラもよく磨いて可愛がっていた。丁度、僕達が大学3年生の時は、1997年で、香港がイギリス領より中国へ返還される年で、共産主義ってなコンセプトを大いに酒(サントリーウィスキー=なぜなら、開高健が愛したから)を飲みながら語り合ったのを懐かしく感じる。彼曰く、どんなに映像メディアが発達しても、活字の力は失われる事なく、また、写真も同様に強いメッセージ力を持っている!っと熱心に語っていた彼を思い出す。
確かに、それは、同感で、一枚の写真で歴史が変わる瞬間を僕達は見てきた。硫黄島に建てるアメリカ国旗の写真は、アメリカ国民に勇気を与えただろうし、逆に、ベトナム戦争では、メコン川を子供を抱えて必死に渡るベトナム人母親の写真は、一気に、アメリカ国民を反戦ムードへと導く。僕達世代でも、第一次湾岸戦争によるペルシャ湾で、オイルまみれの海鳥を見て、戦争を一層、身近なものとさせる。一枚の写真には、言葉では表現できない、瞬間的で爆発的なメッセージを持つ。しかも、それは、メディアと合体し、ストーリーが追加される事で、写真が一人歩きする危険性も同時に持っている。あのオイルまみれの海鳥は、フセインの意図的なシナリオか?ってね。
キャパから何を学ぶか?
人生は、一度しかない!っな事を、何回か耳にした事はある。細く長く生きるか?太く短く生きるか?ってな愚問も若い頃にした事あるなぁ~って思い出す。今思えば、一生懸命、生きれば、それが、細くても、太くても、長くても、短くても、関係ない気がして。でも、その一生懸命が、難しいわけで。。。自分達にはできない人生をCapaはしたからこそ、死後50年以上経過した今でもなお、Capaは、強いメッセージを送り続けているように感じる。
ますます、混沌とする世代に生きる僕たちとして、真実は何か?って、突き止めたとき、多くの人は、その真実を見つけられないけど、運よく、見つけられる人は、その真実は、実に複雑で、実に惨い、実に欲の塊で、実に絶望的で、実に人間不信に陥る結果であるのではないかな~って思う。また、それこそが、真実なんだって事を、恐怖から受け入れられないかもしれない。例えば簡単な真実としては、太宰治が人間失格の中で出会う真実とか。例えば、愛する人が死ぬとか。例えば、自分が末期がんである事が判明するとか。複雑な真実としては、ケネディーを暗殺した犯人が誰かを知ることとか。
まぁ、時に、真実は、そんなに悲観的な物ばかりではなく、美しいものである時もある。晩年のCapaは、日本を訪問し、GHQの元、喜び&希望に溢れる日本の風景をも撮影している。要するに、Happyって何かな?って考える時に、すべての真実(善悪)を受け入れる準備がないと、Happinessをも獲得できない。っと思える。悪(受け入れたくない現実)を受け入れるからこそ、その反動で、善が、とてつもなくHappy Momentsと感じられるんだろうね。また、一生懸命生きるのと同じように、悪(悲しみ)を受け入れる事は、難しい事なんだけど。。。
PS:
最近、クラスメイトが持っているCanon一眼レフ・デジタルカメラを見て、欲しいなぁ~って感じる。7万円くらいだそうだ。実は、7年ほど前に、アナログ・一眼レフカメラを僕は、購入している。当時のペンタックスラインナップの中では、結構、ハイスペックなカメラ。デジカメは、光の量やピンボケ防止機能など、また、撮影後の加工性を考えると抜群である。でも、自分の取ったアナログ写真と比べると、なんか、アナログ写真の方が、自然な光量で、ナチュラル映像が取れる気がする。デジカメで撮影した無理な逆光写真、暗闇写真は、下手に無理やり光の量を調整して、不自然である。絶対、アナログ写真が良いよ。もっと、これから、一杯、ペンタックスマシーンで、僕のHappy Momentsを記録に残しておこう!って思います。ピンボケ? It is welcomed because Capa also took pictures in ピンボケ.

2007年7月20日金曜日

磯部 修三


知らない人は、この人、誰?って人ですが、その世界を知る人にとっては、偉大な人なんです。そう左の写真で胴上げされている人なんです。全国の高校野球で、優勝経験のある監督は、毎年輩出されるだろうけど、県立高校&私立高校と違う高校を2度全国優勝に導いた人は、写真の磯部監督以外に、取手二高&常総学院の木内監督しか僕はしりません。だから、偉大な人なんです。
7月17日(火)のブログに、今夏の浜商県大会初戦敗退のテーマにて書きました。その際、とあるお兄ちゃんから紹介された一冊の本をアマゾンで予約したら、すぐに届いたので、すぐに読みきりまして、正直、無呼吸状態で読み上げまして、すぐにブログする気になりました。授業の予習もあるので、久しぶりの睡眠時間2時間で授業に臨む事となりますが、Happy Momentなので、自分を許します。僕の高校野球感が、ぎっしり、この一冊に込められていて、小学4年生と5年生で、2年連続、「コロンブスの新大陸発見を読んで」っと夏休みの読書感想文に書くほど(前年版のコピー)、読書嫌いな僕にとって、久々の感動書籍でした。小学5年生で、コロンブスはないよな。他生徒は、走れメロスとか読んでる訳だし・・・。
磯部監督のすごい処
浜松商業(県立)と常葉菊川高校(私立)を共に、4年で甲子園させ、7年目には全国優勝をさせている。運も実力の内とは、僕みたいな平民が、低空飛行の末、豪語するコメントだか、彼は、勝つための法則を心得ている。浜商時代は、負けない野球(バント野球)。菊川時代は、勝つ野球(フルスイング野球)。それぞれ異なる生徒、高校の特徴を生かし、スタイルを変え、勝利に導く。ただ、運だけではなく、頭を使った野球を徹底させる点では、どちらの時代も共通している。木内マジックは、潜在能力の高い選手を率い、イケイケ野球で、取手二校&常総学院でも同じスタイルである事を考えると、組織のリーダーとしての兵法は、磯部氏の方が上と考える。僕は、池田高校の蔦監督も好きだし、元PLの中村監督も好きだが、磯部氏の組織実践論は、他を寄せ付けない。
結果よりもプロセスを重んじる。2アウト3塁で、レフトオーバータイムリーの選手を評価しない。その場面で、強い内野ゴロを打てる選手を起用する。自分の役割認識と相手の一番嫌がる処を攻める(この場合、3塁ランナーを背負う相手チームのピリピリ感、内野ゴロの難しい処理、一塁への送球処理と相手の困難が伴う敢えて、そこを突いていく。)。その場の失敗よりも次に繋がる失敗を優先させる。その場のラッキーな功績(レフトオーバー)を運と評価し、次に繋がらないと見下す。内野ゴロのイレギュラーバンドエラーをどう解釈するか?結果主義者は、まさか、イレギュラーするとは・・・と不運を理由にするかな?プロセス主義者は、守備の合間にグランドを均らしておかなかった事、もう一歩早く前に突進できなかった自分のプロセスを責める。僕は、好きだなぁ~。
実は、両校を優勝させる間に、磐田南高校(県下指折りの進学校)にて野球部監督を行っている。浜商時代の鬼の磯部イメージで、磐田南高校では、16人部員が、監督就任決定と同時に、4名退部しているそうである。計12名でのスタート。そこでの組織改革は、「なんで、みんな丸坊主なの?校則?高野連がそんな事、言ってたっけ?」っと生徒に投げかけ、スポーツ狩りを生徒の判断で導入している。浜商時代には、相当な鬼監督だよ。この状況に合わせた変わりよう、リーダーとして尊敬できないか?そのチームを初年度にて、春の西部大会で優勝し、夏の地方大会では、シード権獲得まで生徒を成長させている。磐田南高校時代は、僕の奥さんも、その進学校にセーラー服で通っていたので、磯部さんのこと知ってますが、(絶対、可愛かったんだろうなぁ~)、幸いな事に、磯部監督に社会の授業を習ってないのだけは救い。磯部監督のお子さんと同期にあたるけども、その時には、磯部監督は、県の教育委員会に転勤になっていて磐田南からも、野球からも離れていた時期でした。(本当に、彼は、実働、野球人生何年なんだ?)もしも、教え子だった場合、僕は、一生、奥さんにジェラシー抱えて、結婚生活を過ごす事になる。自分を不幸な人間と決め、人間失格太宰治路線化したであろう。進学校は、高校野球に対して、面白くて、磯部監督のツテで東洋大姫路との練習試合を組んだが、校長が、「そんな長距離は駄目」っとドタキャンしたらしい。そんな状況下で、シード権獲得は、神懸り。彼曰く、進学校は、公式さえ教えれば、応用問題は、自分達で解いていった。っと語っている。 また、野球名門校は野球自体が大雑把で、実は、進学校との試合が最も苦労するっとも述べている。
この本では、自分のことを書いているので、次のことは、書かれていないが、彼の試合展開の読み、ゲームの組立てセンス、勝負どころの勘は、神の領域。磐田南高校赴任前に野球部監督をしてない時期が、12年間あり、(おいおい、全国制覇2回していて、監督実働期間は?)、その時、TV朝日(静岡民放)で甲子園解説者をしていた時期がある。彼の解説以上のものを聞いたことがなく、試合前のアナウンサーが選手名を読み上げた直後に、今日のゲームでキーとなる選手を挙げ、その選手をどうマークするか?で勝敗が決まる。っと予言し、そのキーマンが試合の分岐点となる。そのキーマンは、主力選手ではなく、2番打者であったり、7番打者であったりするのよね。次スクイズありますよ?って、見事に当てる。初回の投球を見て、すぐに、ピッチャーの弱点(モーションが大きく、盗塁狙う。とか、初回にも係らず、5回までに100球投げさせればバテルだとか)を見破る。一番圧巻なのが、清水商業vs松山商業の甲子園初戦を解説し、清商に対し、「初球は、ストライク取りに行っては行けませんよ!」とアドバイスしてるんだけど、ストライク取りに行って打たれ、「スクイズするなら次の球ですね」ってアドバイス送ってるのに、次の次の球でスクイズに行って、外される。松山商業のデキの良さに、「決勝まで行けるチームですね」っと予言し、松山商業は、その年、決勝まで進み、天理に負けて準優勝。要するに、磐田南をシード高にさせる位だから、並以上の高校を率いれば、相手にとっては、普通に試合したら勝てない。作戦が読まれてるわけだから、勝てる訳がない。作戦どころか、心理まで読まれてるし・・・。
この本を読んで、涙したところ
①P34(抜粋)
浜商時代、すべての選手がレギュラーになれる訳ではない。その為、中学時代にセンスのある選手も競争の中で、挫折と屈辱を嫌というほど味わったに違いない。彼らが、挫折から立ち直らせたのは何だろうか?卒業後、彼らが口にするのは、辞めようと思ったのは、一回や二回ではなかった。だから、夜、寝る前に、母親に「俺、野球辞める」っと言って寝るんだけど、翌朝、母がいつもの様に弁当を作ってくれる姿を見ると、それでも「辞める」とは言えなかった。しばらくして、また、「俺、野球、本当に辞める」って言うと、今度は親父が出てきて、「父さんは、お前をプロ野球選手にしたいと思ってやらせている訳じゃない。意気地のないことを言うな」って言われ、グランドへ何故か向かってしまう。この親子関係も涙に値するが、磯部監督は、高校野球を教育として応援してくれた親達に感謝している。
②P81(抜粋)
甲子園開会式。朝3時に浜松を発ち、スタンドに詰めかけた父母が、大会行進曲のメロディーにのって行進する我が子を見つめ涙している。指導者にとって、良かったなぁ~っと思う瞬間だ。
③彼は、野球監督である前に、高校社会科教諭としての社会人としての恩師を何人か、この本で登場させている。その恩師に、幾度となく、救われ、応援され、助けられたっと述べている。また、教え子達の面倒もよく、指導者を目指す教え子達の恩師ともなっている。その例として、浜商優勝時のセカンドの森下キャプテン(160cm)を中部電力野球部に職を推薦し、廃部と共に、浜商コーチ(理科実験補助員)として採用している。日大三島高校監督へのポストを森下に薦め、後に、森下が日大三島監督を首になった際に、常葉菊川のコーチとして招いている。森下氏にしてみたら、人生の恩師だろうね。この森下氏こそ、僕と同じ中学校卒業でありまして、僕は、それだけで、自分自身に誇りを持っています。森下先輩こそ、日本の高校野球界で、ノックを打たせたら右に出る人はなく、キャッチャーフライを思いっきり打ってる人は、他に見たことありません。甲子園の試合前のノックは、いつも注意深く見詰めていますが、いまだ、現われません。磯部&森下コンビは、浜商時代に監督&キャプテンで全国制覇し、菊川時代には、総監督&監督として、2回目の全国制覇をしています。いいコンビです。
ドラマだなぁ~って思うところ
磯部監督は、常葉菊川の監督を後任の森下に譲る事を決意します。2006年の春です。本では、敢えて、対戦高校名を伏せているようでしたが、実は、磯部監督最後の公式戦相手は、2006年夏の静岡県予選で、浜松商業でした。その結果は、小雨振る中、3-4で常葉菊川は、初戦敗退しています。丁度、一年前の今頃でした。僕は、MBA合格通知貰ってましたが、TOEFL追加テストの為、勉強しなくてはならない絶体絶命の環境でしたが、浜商に勇気をもらいに浜松球場に一人で出かけ、観戦しています。菊川高校が負けた後、僕は、敢えて、球場出口で磯部監督の最後の姿(その後は、総監督へと退く)を見ようと待ち伏せしてました。泣き崩れる選手を森下コーチが慰め、磯部監督は、遠くから選手達を見ていました。その泣き崩れた選手達(2年生)が、2007年春の選抜で全国制覇する事となります。そして、今年の2007年夏の県大会初戦で、その時勝った浜松商業は、37年ぶりの初戦敗退をする訳です。僕、こういうの好きです。お陰で、浜商からパワーをもらった僕は、MBAへの追試TOEFLの最後の試験にて、いたちの握りッぺ並みのスコアー飛躍を遂げ、今、東京で生活していのです。こういう無理矢理な因果関係が好きだなぁ~。
PS:
本の中で、磯部氏は、次のような、僕にとってはショッキングなコメントをしています。「プロは結果、アマチュアはプロセスが大事だと思う。ことに高校野球では、チームつくり、組織つくりの段階で重要なのはプロセスであり、早急に結果を求めたら、個人も組織も死んでしまう。」
僕は、このブログで、以前にテーマとして、自分がプロセス重視思考であること、ブルーのユニホームを着るプロフェッショナルを目指している!っと宣言しており、この彼のコメントを、どのように解釈していいものか、しばらく、考えてみます。

2007年7月19日木曜日

典型的な駄目ラーメン屋


長男が、幼稚園の友達から、新しい言葉を教わってきたらしい。奥さん曰く、「トウベイか?」って、「欧米か?」or「南米か?」をどうやら、間違えて習得してきたらしい。ほのぼのとしたHappy Momentsだが、そんな会話をした後、電話を切った僕は、トウベイか?って単語を、“盗米か?”って、一人で想像し、「日本の思考、政治、文化も、アメリカへ右習えか?いや、絶対、アメリカのコピー版ではない、日本独特な良い文化もあるはずだ!」なんて、気合入れて考えていた。結構、頭悪い子の思考回路だと、つくづく、思います。でも、これが、楽しい。
そして、今回のブログのテーマへと続く。タイトルこそ、けなしたような表現を使ってしまっているが、僕は、実は、この典型的な駄目ラーメン屋ってのが大好きである。大学時代にも、学校の近くに、こんな駄目なラーメン屋があって、正式には、中華料理屋だけど、なんか、そこには、古き良き日本の生活が凝縮されているっと感じるから大好きである。
僕の定義する駄目な中華料理屋
1)お客は、サラリーマンか男学生のみ(女性客は、絶対に居ない)
2)店内は、綺麗ではなく、床はベトベト。だから、絶対に、荷物を床に置きたくない
3)絶対、テレビがあって、確実に、ナイターを放送している
4)決まって21:00が閉店で、ナイターが延長している時だけ、21:30まで開店している
5)放置してある新聞紙が確実に、ホッチキスでご丁寧に束ねてある
6)その新聞が、なんでかなぁ~って処に、餃子のたれのシミがついてる
7)絶対、老夫婦2名にて店を切り盛りしている。息子達は、手伝わない
8)店名は、xxx軒、yyy軒ってのが定番
9)ラーメンは、確実に、しょうゆ味のみ
10)昔は、出前対応してた雰囲気だが、今は、もっぱら、店内販売のみの
一見、ぜんぜん駄目な中華料理屋なんだけど、こういう店がなかなか潰れない。渡る世間のラーメン屋を10倍小さくした感じの店の事を、僕は、表現しようとしている。東京は、一迎さんが多いから、成り立つのも理解できるが、地方(田舎)でも、そこは、地域のネットワークと化し、毎晩、固定客がビールなんかを飲む集いの場となっている。店名もあるのだが、そういう店に限って、交差点の脇にあるため、「かど屋」とかのニックネームがついて親しまれている。なぜだか、分からないが、ラーメンは不味いのだが、ニラレバ炒めと餃子は、結構、美味い店が多い(555統計的観測から)。
最近は、綺麗なお店が目立ち、新橋辺りでも、立ち飲み居酒屋は多いのだが、そういったコンセプトの中華料理店が少なくなっている気がする。だって、今まで10ヶ月くらい新橋周辺を歩いているけど、なかなか、見つからなかったし、格好良いコンサルタントが推奨するように、プロフェッショナルなラーメン専門店や、女性も入店しやすい中華料理屋が増えてきている状況の中で、ますます、この典型的な駄目中華料理屋は、希少価値を増しているようにも思う。
っと、言う事で、新橋駅西口付近に発見した、例のごとくzzz軒って名前の中華料理屋に入った。本当に、コテコテで、僕の定義する10のクライテリアを全てクリアーしてたし、更に、注文したものは、餃子と二ラレバ定食だったが、餃子は不味かった。でも、ニラレバは、美味かった。あの脇役で出てくるスープと、お新香がポイントを高めているんだなぁ~って、当然、把握している事実なんだけど、今回、再認識した。最近は、ナイターが、丁度21:00に終わるので、今回の店の看板娘(オバちゃん)は、21:00にラストオーダーだよぉ~って店内を歩いていた。まぁ、ナイター中継時間だけが変わっただけで、この風景は、10年前の僕の大学時代と全く同じであった。
ここから何を学ぶか? (毎度の事、強引だなぁ~)
ハーバードMBA取得者で、投資銀行に勤務する青年を冷やかした面白い小話がある。下記、555日本語訳。投資銀行に勤務する若きアメリカ人が、小さなメキシコの海岸でボーっとしていると、小さな船に乗った一人の漁師が、ボートを岸に付けていた。小船には、数匹の黄色い魚が入っていた。
アメリカ人:
綺麗で美味しそうな魚だねぁ~。それを捕るのに、どのくらい時間が掛かったの?
メキシコ漁師:
ほんのちょっとの時間だよ。
アメリカ人:
それなら、なんで、もっと長い時間、沖に居ないの?そうしたら、もっと、たくさん取れるんでしょ?
メキシコ漁師:
家族養うなら、これだけあったら、十分だよ。
アメリカ人:
でもさぁ、残りの時間は、何するの?
メキシコ漁師:
遅くまで寝て、魚をちょっと捕って、その後は、子供達と遊ぶ。そして女房とワイン飲んで、仲間達とギター弾いて遊ぶんだよ。これでも結構、忙しいんだよ。
アメリカ人:
僕は、ハーバードのMBAを持っているんだ。僕に任せて!もっと、漁に時間を費やし、そして、大きなボートも先行投資として購入する。魚が一杯取れたら、どんどん大きなボートに変えていく。一杯取れた魚は、仲介業者に卸すんじゃなくて、直接、加工センターに納入し、最終的には、缶詰工場のオーナーになれる。そしたら、この小さな漁村を後に、メキシコシティーへ引越できるし、ロサンゼルス、または、ニューヨークに進出して、会社をどんどん拡大できる。
メキシコ漁師:
しかし、どのくらいの時間が掛かるんだ?
アメリカ人:
15年から20年くらいかな。
メキシコ漁師:
そしたら、何か、良いことあるのか?
アメリカ人:
(冷笑して)、Come on! IPO(株式上場)させるんだよ。高い値段で会社を売って、お金持ちになるんだよ。億万長者にだってなれる。
メキシコ漁師:
億万長者になったら、良いことあるのか?
アメリカ人:
(冷笑して)、その後は、仕事なんかしなくてもよくて、小さな南の島に移住して、遅くまで寝ていて、たまに魚なんか捕って、子供達と一杯遊んで、女房ともワインなんか飲んで、一杯、ギターしてエンジョイできるんだぜ!
メキシコ漁師:
????????
人間って、面白いね。それぞれに、それぞれの価値感があるって、面白いよね。こんなちょっとしたHappinessを、典型的な駄目中華料理屋でオーナーと共有しました。時々、テレビもなくて、ラジオだけを流している、そんな中華料理屋があるよね。それは、もっと、価値あるね。みんな、無言で、ラジオから流れている音声を聞いている姿が、愛らしい。That is a life.

2007年7月18日水曜日

仮想空間に偉大な一歩を踏み入れる


登校時に、新橋駅周辺で、チラシ配りアルバイターから、一枚の広告をゲットする。「新橋で最大級のネットカフェ。オープン!」って印刷されていて、裏には、今なら、入会費無料、初めの30分半額、22:00~6:00の期間は一律1,200円ってなプロモーション。 正直、いままで、漫画喫茶とかネットカフェを利用した経験がない僕としては、興味を引かれた。最近では、ネットカフェで一夜を過ごすネットカフェ難民ってな言葉もポピュラーになってきてるし、どんな場所か、知っておいても損は無いかなぁ~って思って、飛び込んだ。僕個人的には、人類が月面に残した一歩並の自分にとっての偉大な一歩でした。
アポロ11号が、人類初の月面着陸成功から6時間半後、アームストロングは月面に降り立って、有名な" That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind. "(これは一人の人間には小さな一歩だが、人類にとって大きな飛躍だ)という言葉を述べたそうです。1969年7月の今頃らしいです。まぁ、そんな、僕の一歩は、人類の飛躍を意味しませんが・・・。
そこは、やっぱし、東京だね。ビルの3階フロアーをいくつものブースに区切り、100人くらいは、ブース内に収容できるようになっている。まぁ、そこは狭く、1ブースがタタミ半畳くらいの面積なんだけど、十分、一晩過ごしたりするには、可能な空間。飲み物もフリーだし、漫画ラインナップも充実しているし、雑誌とかも最新号が棚に並べられている。お腹がすいたら、4Fの居酒屋にオーダーできて、お届けもしてくれるそうだ。ふ~ん、今の若者は、ここで、過ごすのか~って興味半分で僕もブースの中に入り込んだ。
飲み物フリーだし、ブース内でタバコも吸えて、完全別室だから、プライベートも守られているし、インターネットで外部とは繋がっていて、ネットサーフィンもできるし、ゲームもできる。居心地良いなぁ~って思ったけど、30分過ぎた頃から、急に、心細くなってきた。すごく孤独感を感じた。本当に、怖いほどの恐怖感。学校帰りの17:00頃にチェックインしたんだけど、結局、1時間しか利用せずに退室してしまった。300円でした。本当に、僕は、小心者です。
ネットカフェから何を学ぶか?
ネットカフェがヒットしている社会現象を読むに、結構な人が、孤独なんだなぁ~って思う。そして、結構な人が、その孤独を受け入れ、楽しんでいるんだなぁ~って思う。でも、僕には、その孤独感が耐えられなかった。別に、寮の一人部屋にいる時でも、十分に孤独感を味わう事には慣れているが、なにか、別質の孤独感だった。本当に、怖くなるよ。薄暗い部屋の中で、目の前のPCと睨めっこ。本を読んだり、半畳のスペースで、結構なエンターテイメントを身体を動かさずにアクセスできる、ある人には、最高の空間なんだけど、そこに、60分と居ると、閉鎖的な雰囲気に圧迫されて、ここに、これ以上いたら、世間と接触できなくなる!みたいな恐怖感。ここに慣れてしまったら、地上に出るのが怖くなるっという恐怖感。一種の錯覚空間(マリファナ吸引状態)を満喫できるけど、本当に、怖い。
僕は、この経験を、初めで、最後じゃないかな~って思うけど、絶対、ノーサンキューだね。まぁ、これも、いい経験って事にしておきます。 ネットカフェの存在自体を責めないし、需要がある限り、面白いビジネスだなぁ~って痛感する。また、そこを利用する若者にも、別に、批判するつもりもないし、ただ、僕とは、すこし価値感が違うなぁ~って思うのが正直なところ。
今年になり、「セカンドライフ」ってな、ネット上の仮想空間が、ブームになり、その世界では、ネット上だけで通用するリンデン㌦貨幣も存在し、その貨幣を現実のUS㌦とも交換できる。毎日のように、交換レート(1US㌦=270リンデン㌦)は変更されていて、その仮想空間で、店を開店させたりして収入を得たり、映画に行ったり、デートもできるらしい。2007年6月時点で、700万人がそこで生活を満喫しているようです。将来的には、その仮想空間で、結婚ができたり、就職先が、仮想空間の仮想会社であったりする事も現実味を帯びてきている。すごい時代が来るよ!もう、実在のマスメディアとか、自動車会社とかも、セカンドライフ内に出店したり、そこで、宣伝広告を積極的に実施している。本当にすごい時代が来てるよ!
聞いてるだけでは、おもしろそうだよね。セカンドライフって名前だけあって、現実の社会とは、まったく違う性格、違う性別で、架空社会を実感できるんだもんね。ちょっと、ネットカフェを利用してみて、なぜ、僕が恐怖に感じたか、分かってきたような気がする。その世界は、温度を感じないのよね。寒いのか、暖かいのか、相手が怒っているのか、笑っているのか、自分が興奮しているのか、冷めているのかっが、分からない。鈍感になる。それが、僕にとっては、恐怖なのよね。でも、今、セカンドライフや、ネットカフェがブームらしいよ。みんな爬虫類になっちゃうよぉ!
僕は、人間は、Happyになる為に、生きる生物だと思っている。人それぞれ違うHappy価値感の中で、それぞれが、Happyを追求して毎日生きているんだと思っている。僕は、本当にネガティブ主義者だなぁ~って思う事は、セカンドライフで、失敗する人は、本当に、不幸な人だと思う。だって、顔も隠せて、学歴も関係なくて、性格も作り直せる。ある意味、人生をやり直せる。そんな環境下で、失敗する人は、本当に、不幸だぁ~って思う。そこで、成功できる人は、ある意味、その人がHappyを感じられるのならば、それは、Happyだろうけど、そんなセカンドライフでも、不幸者が出たら、敗北者がでたら、どうなっちゃうの? 今後、20年経過してみたら、絶対、「サードライフ」ってなコンセプトの新しい世界が彼らを迎え入れてくれるんだろうと思うけど。。。今から、お金持ちになろうと考える後発プログラマーは、絶対、サードライフの企画に今からでも注力した方が、夢かなうと思います。
僕の思うサードライフってのは、お金なんかどうでもよく、南の楽園で、ボーっと過ごすような・・・・そんな世界かな?待てよ。そんな世界は、オウムはじめ、有害集団は電磁波で封じ込めろ!ってな日本大移動を試みた白装束団体(悲しい事に、教祖の千乃さんは、2006年に亡くなられている。2003年のメディアへのコメントでは、余命3週間と叫び、移動していた筈だか、最後まで闘病を頑張った様子です。)また、成田のホテルででミイラ化された遺体を前に“生きている!”と定説を唱え続けたライフスペースの高橋さん、っといい頭の良い人は、この世に多いです。
僕は、本当にコンサバティブ(保守的)主義者だなぁ~って思うけど、まずは、「ファーストライフ」で、Happyを追求してみます。

2007年7月17日火曜日

劇団四季ライオンキング&浜商初戦敗退


先週末の日曜日(日本列島は、台風で大荒れの時)に、汐留にあります劇団四季-春劇場にライオンキングを見にいきました。人生初のミュージカルですし社会勉強として、また、タモリさんが酷評するミュージカルとは、どんなものかと見に行きました。30過ぎて、ゆとり教育を実践しています。
インターネットで、2週間前から予約準備に入りましたが、チケットの売れ行き速度の速いこと、速いこと。ネットで空席を確認し、一番安い席が2つあること確認し、大学のキャンパスでタバコ休憩していたら、一倍安い席が完売。あせって、速攻、予約してキープ。2F席の後から3番目。でも、6,200円ですから・・・。上演は、途中に20分の休憩挟みますが、13:00~16:00と3時間タップリの上演でした。
さて、ライオンキングは、96年にディスにー社が映画化する事で、全世界にストリーが知れ渡る事となりますが、劇団四季は、そのディズニー版をミュージカル(日本語)にて演出しています。98年から開始したそうで、9年経過し、上演回数も5,000回を日本最速スピードにて突破し、ロングランを継続しています。9,000回÷365日÷9年=2.73回/日って、全盛期の新日本プロレスよりも凄いよ。劇団四季とは、関係ないですが、ディスニーがこれを映画化した際に、手塚治虫のジャングル大帝のパクリでは?っとザワツイた噂があったそうです。その時、既に手塚氏は、亡くなられていましたが、手塚サイドが、手塚治虫自身がディズニーのファンであり、もし故人が生きていたら「手塚治がディズニーに影響を与えたというのなら光栄だ」と語ったそうで、著作権とか、コピーだぁ!とかの騒ぎは収束したそうです。なにか、ほのぼのする出来事ですね。ウェキペヂアで手塚治虫を閲覧したら、本当に彼自身も、ジャングル大帝のイメージは、ディズニーのバンビーにひどく感銘を受けて、レオに至るそうで、芸術の世界で、Give&Take 関係は、本当に、素晴らしいですね。影響しあい、さらに、美を追求するって、素晴らしいですよ。
四季から何を学ぶか?
1967年に四季株式会社が発足したそですが、東大-浅利慶太&慶大-日下武史らを中心に結成された学生演劇集団が母体なんだってね。四季ミュージカルの何に感動するかって、まぁ、2Fに居ても、しっかり耳に届くシナリオ、発声方法が、この世界では、四季節とか言って冷ややかに評価する演出家も居るらしいけど、そんな批判にもめげずに、ポリシーを変えず、貫くのは、格好いいよね。このブログの開始したばかりの時期に、松本人志監督の映画-大日本人を見て、メッセージを表現する事って、難しいナァ~って痛感したけど、はやり、浅利慶太って人もとても凄いんだよ。きっと。本当に、自分に同じ時間と演出家と資本を与えられても、あれだけの演出はできないや。やっぱし、凄い才能をもった人は、世の中、いるもんだねぇ~。
女性や子供が見たら、僕以上に、ミュージカルは感動するのではないかと思うけど、僕レベルでも、十分満足できました。まず、舞台装置。次から次へと、舞台演出が変わり、照明、音楽、床から飛び出すモニュメントとか、相当、舞台装置に拘っている。あれって、相当、よく設計されていて、当然、ライオンキング特別舞台っとなっているけど、あの舞台装置は、芸術ではないでしょうか?エンジニアが凄いだろうし、裏方の仕込み担当者も相当凄いですよ。あと、人間が、動物を演じる上で、ただの着ぐるみを羽織るわけではなく、動物の小道具を巧みに操るのは、あれも、凄いですよ。要するに、6,200円払っても、損したと思わない、正直、もっと、払っても良いかも・・・っと思わされました。ミュージカルは、良いよ。あれは、良いよ。
実は、僕は、大学2年生の時に、大学の文化祭で演劇をした事があります。よくストーリーは覚えてませんが、主人公並の役柄であったような気がします。なんだか、本当に、分かってませんでしたが、ベトナム語の劇を演じ、正直、台本丸暗記した事は、自分でも褒めてあげたいですが、意味は理解してませんでした。その為、どこで、感情を込めていいのやら、知るはずもなく、ただ、四季節並の大きな声で、はっきりと発声しようと心がけていた事だけは、覚えています。あえいうえおあお♪とかも、ちゃんと、練習しましたから。当時、あの文化祭の語劇の前に、劇団四季を鑑賞していたら、自分の演劇に掛ける情熱も変わっていたのではないか?っと思えてきました。当時の文化祭演劇の総監督は、クラスメイトの男の子でしたが、彼は、演劇に興味を持っていて、個人的にもライブハウスとかに見に行ってましたし、情熱を持って、僕達を指導してくれましたが、その情熱に応えることなく、サボる事だけを考えていました。だって、舞台の上で、目をぱちくり開けて、両手を大きく広げて、「愛してよぉ~」なんて、やっぱし、恥ずかしいよね。でも、とある一線を超えてしまうと、それは、快感となるんだろうね。その快感を、不真面目練習の理由で、習得できなかった。
そんな不真面目な経験と、今回の真面目な四季経験とがミックス融合されて、自分の不真面目さが、相当可愛く感じますし、また、四季プレゼンツの演劇の偉大さを痛感しました。世間の人が、良いと言うものは、良いものが多いよ。自分の五感を使って、生で見て、改めて、そう感じました。実践する事が重要だと思い、実践して、本当に良かったと思っています。


PS:
昨日、高校野球の特待生問題について、大いに、言いたい事を主張しましたが、本日(7月16日)、大変悲しい出来事がありました。第89回静岡県高校野球地方予選にて、例の浜松商業高校が、初戦で、県立袋井高校と対戦し、延長10回の激闘の末、1-2で敗退しました。あれだけ、昨日のブログで豪語しただけに、残念ですが、本当に、悲しい出来事で、5分間、西の方向を向いて、黙祷しましたから。ショックの余り、奥さんに電話しましたが、「今は、忙しいから・・・。どうせ、ブログにでも書くんでしょ・・・」っと相手にされなかったので、素直にブログに書きます。
僕が、高校野球を観戦するようになり、25年ほど経ちますが、浜松商業が地方予選を初戦敗退した記憶がありませんでした。調べたら、37年ぶりの初戦敗退との事です。まぁ、僕が、悲しい以上に、現役の選手の方が悲しいわけで、比較になりませんが、これを契機に、再度の黄金期への第一歩を歩みだして欲しいっと強く願い期待します。
このニュースをインターネットで知った為、試合状況をよりリアルに把握する為に、大の浜商野球部ファンのお兄ちゃんに、電話しました。当然、彼は、球場に足を運び、スコアーブックを、将棋の感想戦なみに、頭の中に同時書き込みできる方なので、試合内容を詳しく確認しました。衝撃的だった彼のコメントは、スコアーブックには記されない、「勝ち負けは、その時の流れ、運、実力で仕方ないけれど、負けた後の浜商ナインの悲しみ方が浅く、その姿から、悔しさが伝わって来なかった。 」っと黙祷するファンとしては、衝撃的過ぎまる内容でした。そのお兄ちゃんより、一冊の本を紹介されました。「バントからフルスイングへ」(ひくまの書店、1,575円、磯部修三著)を早速、アマゾンで購入し、熟読して気を紛らわしたいと思います。筆者は、昭和53年の第50回春の選抜にて浜商を優勝に導いた監督で、昨年の春優勝の常葉菊川高校の総監督であり、人生で2回、率いた高校を全国優勝に導いた人物です。僕も修行します。
本に興味のある方       -->http://books.livedoor.com/item4893173731.html
浜商野球80年史に興味のある方-->www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/school/hamasho/

2007年7月16日月曜日

高校野球特待生制度の問題を考える


ごめんなさい。今日は、初めに謝っておきたいっと思います。7月15日は、第88回静岡県高校野球選手権大会の地方予選開幕日であります。あいにく、雨で順延になり、16日(月)からの開幕となりますので、今日のテーマは、高校野球です。
ある時、夕刊ゲンダイを読んでいたら、「直撃、突撃、反撃インタビュー」のテーマで、自民党高校野球特待生制度問題小委員会委員長の塩谷立会長(衆院議員、静岡市ブロック)のインタビュー記事が載っていた。同じ県民出身として、高校野球を愛する同士として、ブログに書かない訳にはいかず、今回、テーマとして取り上げる。
相当前に、高校野球特待生制度が問題になったけど、個人的には、全然、問題だと思っていない。それなのに、自民党は、小委員会まで結成し、高野連に対し、提言をしていく!って言うから、同じ高校野球を愛する同士でも、価値感が全く別で、悲しいほど、楽しい。記事を読むと、高野連って強いんだね。相当の権力を持っているんだね。だから、高校体育連盟(高体連)に属してなく、言われてみれば、インターハイの競技では、種目としてないなぁ~って改めて痛感する。自民党の先生方は、高野連の態度がおかしいから、国民的な意見を集約して提言していくそうだが、国民は、それほど、関心ないと思うのですが・・・。その自民党の提案ってのも中途半端で、特待生の人数枠を設けたり、県外者の甲子園ベンチ入りの人数を制限するとか・・・・。全然、駄目すぎるぅ。
【僕が高野連会長だったら、どうするか?】
①特待生制度の導入促進
②一校何人までとか、県外生徒何人までとかの制限も撤廃
③国籍問わず、青森山田高校は、9人全員アメリカ人奨学制でも甲子園出場可能
④キューバ出身メジャー経験有りで、高校卒資格ない人を受入可能。35歳高校一年生が可能
④奨学金どころか、能力ある選手には、給料支払ってもいい。 
 給料と言うと大げさだから、メジャー視察研修費を負担するとか
⑤法律犯す行為(万引、暴力、飲酒)は、謹慎処分継続
⑥高野連会長の立場を利用し、高体連会長も兼任し、高体連(文部省をも)組織改革実行
要するに、なんでも、アリアリでいいと思っています。現実的に、青森山田高校が、全員外人だったら、ファンはブッ冷めだろうし、県民からの応援も得られない。そんな孤独な選択を校長は選ぶ訳もない。結構、完全自由化されると、みんな、横一線になって、お互いを意識し始め、そんな思い切った事も、できないはず。高校駅伝で仙台育英が、全員、タンザニアの選手でも、僕はWelcome。仙台育英は、相当、アフリカ指向の高校で、将来、アフリカで働きたいと考える若き中学生に夢を与えたい!まぁ、そうなったら、仙台育英PTAが、黙ってないと思うけどね。そこは、内政干渉なので、要注意。
高校野球は、教育の一環として実施しており、その過程を通じて、友情、団結力を学ぶものだ!っと主張する人は確実にいると思う。でもさぁ、それって議論の擦り替えで、別に、同郷学区だけの狭い範囲で、規制の中で育む団結力も、完全寮生活で全国(世界)から集まった同士の間の団結力も、それほど、大差ないのでは?
また、過度な奨学金は、いじめを誘発するか?ちゃんちゃら可笑しくて、そいつ等はヒーローだから、そのヒーローが逆に貧乏人やセンスない奴を苛めると思うよ。そしたら、奨学金カットで平和な高校野球に戻ります。
本当に教育の事を考えるならば、早い時期から、多国籍の同世代と意見を交わし、一緒に、白球追いかけるみたいな、アメリカ黒人が甲子園で、泣いて砂もって帰ったら、日本人のアメリカ人への偏見も変わるのでは・・・・
この奨学生問題のキッカケであるプロ野球との黒い癒着を加速する!っと言った視点を無視する事はできない。プロ野球編は、PS欄外で書くけど、18歳生徒に、史上初契約金10億円くらい払って欲しいものである。もう西武のスカウトなんか、気合入っちゃって、リトルリーグ小学生から注目した選手を囲み、ガンガン、お金を援助する。それも、資本主義的にはオッケイ。何も、法律犯してないし、セーフ。そしたら、球団潰れるから、そこそこの処で、辞めざるを得ないはず。
555高野連会長の下では、県立高校が、甲子園にいけなくなるのではないか?っと、特に県立高校ファンが心配すると思う。事実、確率的に低下する事は、確実であろう。しかし、高校野球が、教育である以上、それを結果主義的に教えるか、または、プロセス主義的に教えるかが、監督、部長に求められる。舞の海が、相撲で、小錦に勝つ美学を一種の教育価値感に置き換えることはできないか?
僕が、以上の様に思うのも、特待生が全解禁になっても、それでも、松山商業、広島商業、浜松商業は、いい試合をする事を期待できるからです。あれだけ良い選手を集める帝京、桐蔭学園、仙台育英、大阪桐蔭、光星学院、遊学館、智弁和歌山は、いつも、セコイ試合して2回戦で敗退していく。時に、優勝するときあるけど、あれだけの選手を揃え、近代設備の揃え、奨学金払って、あの結果では、投資対効果で分析した場合、かなりのローリターンである事が分かる。一方、私学といえども、PL学園、横浜高校は、中村監督っといい、渡辺監督っといい、野球の前に、人生とは?っを教え込むから、試合に味が出てくる。人生とは?っと生徒に訴え続ければ、特待生制度解禁しても、大丈夫だと思います。その人生とは?っと語りかける事のできない文部省教員試験を突破した先生が少ないのが、問題だと思います。僕は、いつでも、呼ばれれば、会社辞めて、高校野球の監督やりたいです。
【県立高校の理想とする野球】
1973年は、作新学院・江川卓の時代だった。圧倒的な投球内容の江川(彼の地方大会の結果は神懸り的)は、春選抜の準決勝で、広島商業に1-2で負けている。その時の広島商業の作戦は、
1)点を与えず、ひたすら相手のミスを待つ
2)ファールで粘り、投球数を増やす
3)投球テンポを狂わせる
誠に、らしい試合である。 夏の選手権では、2回戦で、これまた、県立高校の銚子商業に延長12回の末、1-0で敗れている。要するに、昭和の怪物(本当に怪物、高校時代にノーヒットノーラン9回だよ)も、地道な県立高校に敗れるのである。
PS:
日本プロ野球も、選手に年俸10億円払えないのが、本当に、残念でならない。僕が、球団代表だったら、上原、松中あたりに10億円払いたいけど、ごめんね。って経営の甘さを土下座したいと思う。僕の思うプロ野球改革は、簡単。損益計算書をオープンにするだけで、すべての問題が解決する。収入100億円、費用80億円、当期利益20億円。費用の内、松中に10億円、和田に10億円みたいに透明にできれば、全てが解決し、年一回の株主総会では、当期利益の20億円は、PL学園のA君に投資にまわす為、今期配当なし!ってな感じ。メジャーは、選手の年俸高騰でストライキにも突入するが、あまりにも選手が、当期利益を赤字にする程の年俸を要求した場合、株主、メディアから叩かれる可能性大だから、球団社長としても自信を持って、「君の市場価値は、5億円だよ。それ以上、求めるなら、直接、株主説得できるか?」って言えば、簡単に、ハンコ押しちゃうよね。だから、結論として、損益計算書をオープンにする=株主会社化さえできれば、すべてが、解決する気がするのですが、駄目でしょうか?そしたら、広島カープは、潰れちゃうって、カープファンは抵抗するけど、カープ球団社長が、イの一番に、株式会社化できたら、カープは、ジャイアンツを超えるほどの高額選手を抱えることのできる、球団になれると思います。球団社長が、自分達のHappinessだけに固守した場合(損益計算書のブラックボックス化)、Happinessをファンと共有してくれなかった球団に対し、あなたは、それでも、ファンでいられますか?

2007年7月15日日曜日

別れ際の決まり文句


時々、このブログにも登場する、「とあるアメリカに住む女性」ってな人が、結構、僕の人生に影響を与えた人ランキングに上位ランクする存在です。彼女とは、ここ10年間くらいは、年に一度くらいしか会う機会は無く、下手をしたら、それ以下かもしれない。最近、豆にも連絡を取るようになったが、以前は、まったく、連絡は取らず、彼女からメールとかは届くが、返送しないことも多かった。理由は、I am busy in working.
いつ頃だったか、再開した後、再び、バイバイする際に、次のようなコメントを決まり文句としている。 「じゃぁ~ねぇ~、次に会うときには、お互いビックになってようね!」このコメントの背景には、自分は、他人から刺激を貰う事が好きだから、相手に期待すると同時に、自分は、一年後、何してるかなぁ~って想像して、相手に対し、自分が期待したのと同等レベルの刺激を与えられるかなぁ~って漠然的に考えている。案の上、漠然的思考回路だから、なにも特別にする事はないが、確実に、毎回、会うごとに、僕の体重は増えるばかり。言葉の本意を、間違えて解釈していたこの10年間でした。
ところで、とあるアメリカに住む女性は、相変わらず、いや、更に刺激発散マシーンと化し、さらに異次元の世界へと突入しようとしている。それは、僕にとっては、十分な刺激である。 MBA取得の為に、東京に上京して、本当に久しぶりに会う旧友からも刺激をもらっている。まさに、次、会った時には、ビックになっていようね!って約束もしてないんだけど、みんな、ビックになっている事を感じる。それぞれの葛藤の中で、転職をしたり、資格を取得したりっと、頑張ってるなぁ~って刺激を受ける。
ビックになる!って言葉の定義も、人それぞれだと思う。出世する事もビンゴだし、愛人を囲うまでになる事もビンゴ。葉巻くわえる事でも良いだろうし、結婚する事だって、新しい人生で、絶対、ビンゴ。要は、定義の範囲は、至って広い。
では、刺激とは、なにか?相手にジェラシーを与える事か?まぁ、それもビンゴだと思う。現実的に、僕の欲しい刺激は、「あぁ~、いいなぁ~、羨ましいなぁ~」って感じる事が、自分をモーチベートさせる起爆剤になっているから。でも、自分は、天狗になりたくないけど、天狗な人を見ると、ある種のジェラシーを覚えるのも確か。ただし、自分の価値感にミートする事なら、それは、自分にとって刺激となる。
今後、この決まり文句を、とあるアメリカに住む女性だけでなく、いろいろな人に使っていこうと思う。口に出すかは、別として、いろいろな人に使っていこうと思う。そうする事が、自分へのモチベーション促進となるような気がするから。では、次に、会う時には、お互いにビックになってようね!
See you!

2007年7月14日土曜日

その時、歴史が動いた。


今でもNHKで放送しているか知らないけど、徳川キャスターが司会で、「その時、歴史は動いた。」ってな番組をやってましたよね。あれって、世界史含め、歴史上のターニングポイントを多角的に見つめなおし、毎回、徳川さんが確実に言うコメントが、「歴史に、“もし”はないのだが、もしも、彼が、違う決断をしていたら・・・・」てなコメントをボーっと寝ながら見ることは、好きだった。
僕は、高校野球観戦が好きなのは、結構な人が承知しているが、コンセプトは、同じ。野球に、“もし”はないのだが、もしも、あの時、カーブが外角に外れていたら・・・とか想像して楽しんでいる。その瞬間に、いくつの選択肢が存在し、どんな要因(プレッシャー、疲労、実力)が絡んでいるか?ってな想像。以前は、ライブ放送で、野球観戦し、名勝負の場合は、録画してあったフィルムをもう一度、再放送させて観戦したなぁ~って懐かしい。2回同じ試合を見て、これは、歴史上の名勝負と自分で決めた試合は、3回目の観戦をして、スコアーブックつけながら、ひとり分析を楽しんだ。コンセプト的には、「江川な人」ってなのを、10歳くらいからやっていた、相当、地味な男の子でした。
将棋の世界では、「感想戦」ってなコンセプトがある。対局後に、もう一度、駒を並べなおして勝負展開を振り返る作業である。その中身は、ここの差し手の善悪はもちろんだが、プロ同士のお互いの読み、心理状態等を語り合う。将棋で強くなるためには、自分よりも、強い相手と盤を指すことは当然として、その後の、このフィードバックをいかに、吸収し、自分のものとするか。っが、重要らしい。 (石倉洋子コメント抜粋)
そう言えば、僕は、いままで、ある一定以上の恋愛関係を営んでくれた元彼女と、破局後に、感想戦ってな物を、確実に実施している。破局した訳だから、どちらかに理由があるわけで、(結局は、お互いに理由があるものだが)、その背景を確認する事が、実は、楽しい。はぁ~、確かに、ボロッと言ったあのコメントが、相当、ボディーブローさせてたんだぁ~。っとか、あの時のあの態度は、ブッ冷めだよねぇ。とかって、2人の歴史を振り返る。もう恋愛感情なんかないから、冷静に分析できて、また、ある一定上の深さの関係があるから、その感想は、非常に有益である。改めて、僕は、相当、悪だなぁ~ってのを痛感する。悪とは、自己中心的エゴ野郎って定義。
僕にとって、自分史の中で、「その時、歴史は動いた(恋愛編)」で、今回、取り上げたいのは、恥ずかしながら、自分の結婚プロポーズのタイミング。現在の奥さんには、大変、悲しい事をさせたなぁ~って、振り返ると感じる。当時は、精一杯なんだけど、全然、駄目男だなぁ~って、恥ずかしい。僕にとってのそのタイミングとは、結婚前に2人で旅行したチェコのプラハ。街全体が、世界遺産で、どこを散歩しても、中世の古き良きヨーロッパを満喫できる。さらに、そのタイミングを細分化すると、2人で登ったモルダウ川に掛かる橋塔(西塔、左上の写真)。本当に美しい風景で、遠くの丘には、お城が見え、長い共産主義統制後の、「プラハの春」とは、よくもナイスなフレーズだなぁ~って感じる。他の旅行者も誰もいない展望台で、2人は、言葉交わすことなく、しばらく時を過ごしたんじゃないかなぁ~って思い出す。どのくらいの時間かは分からないけど、当時の僕でさえ、「今だ!今、プロポーズする時だ!」って一人で燃えていたんだけど、結局、プロポーズの格好良い台詞もでず、その場を後にしている。彼女も、「早く来い!今だぞ!Come on!」って思ってたんじゃないかな?知らないけど。
その後、結局、プロポーズする事なく、今日に至っている。 改めて、自分は、エンターテイナー(Happy提供者)ではなないなぁ~って、感じるね。過去を振り返ると・・・。さて、それから、6年が経過しています。今の現状は?って言うと、息子達に負けず劣らず、ママを奪い合って、時には、長男を泣かし、野獣のように、我が家に一人しかいない姫に対し、争奪バトルを繰り広げています。負けない!
今の彼女は、「早く来い!今だぞ!Come on!」っとは、決して言わず、逆に、息子達を盾に「もう、うざいよぉ。マジ、いいからぁ。まじで、やめて!」って言うくらいに、愛を表現できているのではないかと、自負しています。One of happy moments.
あの時、もし・・・・ならば、歴史は動いたか?加速したか?停滞したか?そんなことより、今っすよ。今が大事って事ですよ。。。

2007年7月13日金曜日

五感(five senses)を研げ!


我が大学院コースの面白い授業として、「Design&Creativity」てなコースがあり、私も、楽しく受講している。万が一、自分が会社を興した時に、まずは、社名とロゴを設定しない事には、名刺作ることも、会社登記することも出来ない為、そのカンパニーロゴにどのような意味を込め、メッセージとしてお客(社会)に伝えていくか?ってな事を、まじめに、勉強しています。

会社や個人のIDを表現する際に、言葉で伝える事も可能ですが、長くなり、結局、相手には伝わらないのが現実です。しかし、それを、ロゴっというデザインにて表現する事により、フレンドリー、知的、顧客主義、品質重視主義、グローバル等のイメージは、伝えること可能です。いままで、デザイナーのセンスゼロの私としては、結構、新しく学ぶ視点が多く、毎講義ともに、刺激を受けています。本当に、至れり尽くせりの学校で、大好きです。

講師は、日本人ですが、アメリカにてデザインを勉強し、フィリップモリスやP&G製品デザイン担当していた事もあり、現在では、日本にてブランドデザインの会社を経営しています。いままで、適当に、コンビニで手に取っている、ペットボトルや、シャンプーも、実は、かなりのメッセージが含まれている事に、改めて気付かせてくれます。

その授業の一環で、そば打ち体験をする事になりました。これも単位を取る為には、まじめに取り組まなければなりません。狙いは、人間の五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)を使って、何を感じるか?ってのを体験してきましたので、その感想を記します。

そば打ち体験から、何を学ぶか?
「100聞は、1見にしかず」「100見は、1験にしかず」とは、よく言ったもので、その通りです。自分は分かっていると思っていても、それは、過去の経験観測や、偏見に過ぎず、当事者意識を持つ事により、知識・教養・技・感覚といった新要素が、初めて体内に蓄積されます。定年後のおじさんが、必死にそば打ちにのめり込むのも理解できるようになりました。あれは、集中力が求められます。主に3つの工程(粉と水を混ぜる、伸ばす、切る)がありますが、常に心がける事は、均等に水と混ざり合っているか、均等の厚さに伸びているか、均等の太さに切れているか?っと精神力を使います。晩御飯を準備してくれる我が奥さんに、「馬鹿じゃないの~、そんなの毎日、やってるわよ!」って言われれば、それまでの事で、その五感を駆使して、生活できている人は、Happyでしょう。

しかし、実際のビジネス社会(本当に、野郎は、すぐに、ビジネス、ビジネスだぁ)に措いては、当事者意識を持つ事は、現場主義をモットーとする製造業の世界では、最も重視視するポイントなんですが、至って、忘れがちになるものです。パソコン叩いて、電話で取引先と電話して、格好よくプレゼンする事で、一人前だと思い込むのは、至って、危険なシグナルである事に気付きます。なぜなら、その思い込みが、自らの五感を鈍らせ、結果、偏見と狭視野をもった偏った人間になってしまうからです。

授業では、ただ、「五感を使え!」しか教えられないので、その過程を通じて、何を学ぶかは、生徒次第っと言う事になります。何も教えてくれません。だから、僕なりのアウトプットしては、五感を駆使する事で、いままで、見えないものが見え、感じられなかったものが、感じられるようになる。まぁ、普通コメントだね。これは、結構、トキメク出来事で、なにか、賢くなったような、業師になったような感覚を覚えます。また、五感を駆使するという事は、なにか、無→有を創造しよう!っという時にしか、五感は働かないものです。存在する名画を見て、感動する事はすばらしい事ですが、視覚しか使ってない様に、下手でも、絵を描こうとした時には、五感を駆使する事となります。新しい物を創造する時には、別名、イノーベーティブな思考にするには、五感が求められる訳です。

最後に、五感を使う事により、実は、相手の気持ちを理解し、より相手(顧客)へと近づけることも知りました。相手は、何を求めているのかな?っと知りたくなったら、どうにか、五感を使って、相手に近づき、相手と同じ仕草をして、イメージを実感に変えることで、より近くに感じられるはずです。

以前、「重力を感じていますか?」のテーマの時に、自然を実感する事のHappinessを書きましたが、五感を駆使する事は、そのHappinessを実感できる手段(方法)かもしれませんね。実は、普段から、知らず知らず、私達は、五感を駆使しているのかもしれません。しかし、ちょっと、 「いま、五感作動中」っと意識するだけで、感度が敏感になる事に気付いていないだけかもしれません。

PS:
授業の帰路、友人と、「そういった意味で、SEXは、凄いんだよ。五感を超越した、五感+空想+趣向が交わり、凄い世界なんだよ」っと、熱く語りましたが、きっと、読者は、冷めていると思いますので、この辺で、終わります。

2007年7月12日木曜日

沖電気(株)虎ノ門本社訪問


例のEntrepreneurship(起業家精神)の授業の一環であるビジネスプランの続きのテーマである。日本人がチームに私しかいない為、大問題が発覚すると、私が出動する事となる。お陰で、結構、電話回線ビジネスに詳しくなってきた。本当に、NTTには、失望の連続だし、同じ固定電話サービスを提供しているソフトバンクには、関心させられる事も多々、発見できた。
今回の電話通訳サービスを実際に稼動させるには、一般企業のコールセンターみたいなシステム機能が必要になるため、CISCO(アメリカ通信会社.主に装置を製造)には、何十回と電話をし、我々の考える転送形態、通話時間管理形態が可能か問い合わせをしたりした。だんだん、話が煮詰まってくると、CISCOのような装置製造メーカーだけでは対応できなくなってきて、そのハード装置を連携させ、ソフトにより管理するパッケージみたいなものに展開せざるを得ない。いわゆる、ソリューションである。
この難題を解決する為に、一番初めに、IBMソリューションにコンタクトを試みるが、新規参入のベンチャーには冷たく、Emailでのやり取りが進み、効率は、相当、悪い。そんな中、インターネットで、ソリューション実績のある、ホームページ上で問合電話番号が掲載されている企業を探してみたら沖電気が登場してきた。早速、電話してみたら、コールセンターの女性が、本社一階にあるショールームを訪問されてはどうか?っと提案してくれた。早速、ショールームに電話してみた。 一方的に、私の身分とビジネス案を電話で伝えたところ、「社内に展開してみます!」っと言ってくれた。正直、どーでもいいベンチャーに対応してくれる会社は本当に、ありがたい。
例えば、僕達は、プリペイドカード方式にて、顧客からサービス料徴収を最後の手段としているが、本当は、VISAカード利用により、WEB登録を当初の料金回収案としていた。VISAは、審査が厳しく、最低1年以上の実績が求められ、これからニュービジネスを始めるベンチャーには、冷たい。まぁ、そういった企業を取りまとめる黒幕(VISAとの窓口)がいる事は知っているが、ロイアリティー10%ほどを考えると、コストが高く、成り立たない。
沖電気の対応に感動した私は、虎ノ門にある本社(1階=ショールーム)を訪問する事とした。毎日、通学で使っている内幸町駅から徒歩8分なので、気軽な気分で訪問し、窓口になってくれているショールームの館長と名刺交換だけでもしたいと思って、事前に、アポ取りをして、訪問した。 びっくりした。まだ、40歳くらいの若い格好良い館長だった。さらに、ビックリさせてくれたのが、一人のエンジニアを僕の為に、用意してくれていた。結局、そのエンジニアと60分間ほど、技術的なことを話し、そのソリューションの導入実績などを、教えていただける範囲内で開示してもらった。沖電気の対応のすばやさに、逆に、こちらが、オロオロしてしまい、「次回訪問時には、見積用設計図(要望案件)を纏めて、持参します!」っと約束し、ショールームを後にした。興奮していたし、Happyだったんだけど、逆に、しっかりしなきゃ!って気合を入れてもらいました。
MBAで何を勉強しているの?ってよく聞かれる事があるけど、こんな事を勉強しています。一言では言えない、非常に、面白い(Happy)世界を勉強しています。普通にサラリーマン続けてたら遭遇しない世界を、仮想Walkする事ができ、良い経験です。こんな僕を、一年間派遣しようっと決めた会社に感謝します。だって、僕の会社は、製造業ではあるが、沖電気とか電話通信とかとは、全く別の産業ですし。。。きっと、いつの日か、僕への投資が無駄ではなかった事を証明させますよ! いつの日か。いつの日か。何時とは言いませんが・・・

2007年7月11日水曜日

終わりなき日常 を解く


とあるアメリカに住む女性が、新宿ホームレステーマを読んでお便りをくれた。その中で、「終わりなき日常」ってな言葉を見つけた。なので、今日は、このテーマにて、自分なりに解読してみる。終わりなき日常とは?これは、社会学者の第一人者宮台真司が、1998年に出版した、「終わりなき日常を生きろ。オウム完全克服マニュアル」の中で、終わりなき日常を定義している。
自分は、この本を買って読んだわけではないし、アマゾン書評からコメントを借りると、「終わりなき日常」とは、「成熟社会では色んなものが簡単に手に入りすぎるため、終わりなき日常を楽しんで生きることが難しくなる。そこで人々は無理に充実感を求めて、国家のために、とか全人類の平和と幸福のためになどとスケールの大きな自意識過剰に陥りがちである。そのために我々はこの終わりなき日常を飽きずに まったり” と生きる智恵を身につけなければならない」と宮台氏は、メッセージを送っているようだ。さて、誰に?
宮台真司は、ブルセラ、売春などの社会風情を独特の視線で分析する第一人者だが、“まったり”をどう解釈するかが、次のテーマとなる。終わりなき日常を生きるとは、何が良いのか悪いのか自明でない世界を生きることであり、混濁した世界の中で生きる知恵が、今必要とされている。 その知恵=まったり っであるらしい。勉強して、いい大学に入って、いい企業に入って、そのあとに何があるか?何か劇的な変化はあるか?そんなものはない。それが、終わりなき日常。 劇的な変化なんてないからこそ、冴えないやつは一生冴えない、モテないやつは一生モテない、そして、今の社会はそれを救う受け皿なんてもっていない。だから、最初からそういうのをあきらめきって、まったり生きようと。そうじゃないと、必ず犠牲者が出るよ、社会のコミニュケーションスキルレベルが底辺の連中は必ずイタイ目見るよ、っと宮台氏は、メッセージを送っているらしい。さて、誰に?
彼は、悩める10代をフィールドワークによりインタビューする事により、ある意味、彼らに市民権を与えた意味で僕は評価している。売春する少女を一方的に「駄目だ!」って論じない、それを生み出す社会を取り巻く諸問題、売春はその縮図に過ぎず、また、売春する少女は、彼女の中で、期待できない終わりなき日常を生きる為に、まったり=売春する事により、必死に生きる知恵を身につけている。彼の中では、その知恵を持たずに、自意識過剰な充実感追求が、結果、オウムを生み出したのではないか?っと仮説を立てている。 なるほど、面白い。

彼のメッセージをどう受け止めるか?
面白そうだから、本を買って、読んでみようかなぁ?って思ったけど、アマゾン書評を読んで、この本は、僕へのメッセージではないな?っと思ったので、読むことはしません。自分が、社会の弱者じゃないからって事ではなく、この本は、今の僕向けの本ではないと判断したから。ただ、これは、彼の否定ではなく、彼には、凄い鋭い視点で、社会全体を表現している事に、尊敬はしている。ある意味、宮台氏のコメントは、正しい。混沌とする現代を如何に生きるか?絶対、回答はすぐには見つからないし、ひとつに絞る事もできないだろうし、回答自体も存在しないとは思うが、もう少し、自分なりに問い詰めたいと思っている。今だけは・・・。個人の価値感、美意識次第ってな最終回答になる事も想像できるけど、ぜも、ちょっと、挑戦してみようと思う。オウム的思考には、陥りたくないけど、この終わりなき日常に、充実感を求めて、戦ってみたいと思う。きっと、自分でも、なにか、出来ることがあるはず!
PS:Dear とあるアメリカに住む女性
お便りの中で、卒論に悩まれているそうですね。博士号論文は、相当、苦労するそうですね。別の経験者から、聞いた事があります。僕の知らない世界ですが、あなたが言うように、論文作成工程は、創造性と独創性が求められ、どこにも正解なんてなく、その真実がないものに取り組むという途方もなく、孤独と不安だけが積み重なる、決して、“まったり”っと生きてられない状況である事を想像します。あの石倉洋子も本の中で、博士論文作業に難航し、その時、出会った人に相当、心が安らぎ、感謝しているとのコメントがありました。ってなことで、あなたと、悩める終わりなき日常に悩むみんな(including 僕)に、次のコメントを贈りたいと思います。 混沌とした時代をどう生きるか?

04年アテネ女子マラソン金メダリストの野口みずきのコメント
自分が走ってきた距離だけは、裏切らない!
 ↓
そうすると、きっと、
96年アトランタ五輪で銅メダルの有森裕子のコメント
メダルの色は、銅かもしれませんけれども・・・、終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースはしたくなかったし、今回はそう思っていないし・・・、初めて自分で自分をほめたいと思います。

泣けるね。さて、ぼくは、今から、泣きます。Good luck!

2007年7月10日火曜日

Be professional!!!


以前、このブログにて、ブルーのユニホームに袖を通し、いつの日か、ワールドカップのフィールドに立つ!みたいな夢を書いたことがあった。どうすれば、そんなプロフェッショナルになれるかなぁ~なんて、漠然に考えてもロスなんで、ブラ~っと、大学の図書館を散歩した。
発見した本は、「世界級のキャリアの作り方」(東洋経済新報社.1,500円.石倉洋子&黒川清の対話調)で、この作者でもある石倉洋子こそが、我がMBAスクールの副学長であり、日本人女性初のハーバード経営学博士号(DBA)を取得し、マッキンゼーにてバリバリのキャリアを積まれた方なんです。クラスでもそうですが、相当なバリバリ度を簡単に感じる事ができます。オーラがあり、魅力的です。
この本で、石倉は、日本人には、世界で通用するプロが少なすぎる!っと警告し、日本の文化、政治、思想が、社会を構成する20:60:20=上位:中位:下位と分類したときに、下位の20をどう拾い上げるかに集中している事を警告している。今こそ、上位20+中位60のレベルをどう高めるか?こそが、国全体の底上げになると、ある意味、面白い視点を表現している。彼女は、毎年、スイスで開催される政経財主要人物が集うダボス会議にパネリストして出席しており、その経験から、日本のCEOは、メッセージを残せない!っと嘆いている。他国の代表は、30代で、パネル討論にて熱いメッセージを残すそうである。彼女曰く、当時、飛ぶ鳥落とす勢いのCISCOシステムズ-ジョンチェンバース会長に、一歩も引けを取らず自分の主張をしたソフトバンクの孫正義は、精彩を放っていた。っと回顧している。
この本で言う、プロフェッショナルとは、組織・会社・肩書に関係なく、個人の腕だけで活動できる人をプロと呼ぶ。「A大学B学部を卒業し、現在、C株式会社のD事業部にて課長をしていますXXXです。」っをアマチュアと呼ぶ。当然、本の中では、野茂英雄、中田英寿、小沢征爾らが会話のなかで登場してくる。中田英寿は、イギリスでは、英語で会見し、イタリアでは、イタリア語でメッセージを残す。日本メディアに、「なぜ、日本語で会見しないのか?」と問われると、「ここは、日本ではないから」と答えた。時に、中田の言動は、日本人から生意気と捉えられた。日本基準の中で生きているファンを失っても、世界基準を分かるファンを得る方が、価値があるからである。
この本は、全然、難しくないので、3時間くらい要したけど、久しぶりのぶっ通しで、読みきった。今の僕には、ボディーブローの様に響くメッセージが多く、良い本と出会えたなぁ~っと痛感する。
【国際派プロに必要な5つの力】
①現場力
テレビ、新聞からの情報に左右される事なく、現実を自分の目と耳で確かめ、判断する。判断の情報は、受動的ではなく、自ら、能動的に取りにいく。N=1のコメントにぶれない。そのN=1が、上司orCEOであろうと、自分の情報で判断する。
②表現力
英語が流暢である事は、重要ではない。その中味が鍵となる。材料を多く持ち、相手に分かり易く、関連付けて話す能力。外国での経験より、人に伝えたい意見が大切。
③時感力
時間への感度を持つ事、物事を進めていく順序への感度を持つ事。どこかで、時を切って、無理やりにでも完結させるぞ!という意識を持つ事。
④当事者力
評論家ではなく、自分だったら何をするか、どうやってやるか?を常に考える事。人を批判するのではなく、その代替案を必ず提案する事。当事者になってこそ、はじめて全体が見えてくる。
⑤直観力
全体像を把握し、本質を見極め、一番の勘所へ一直線に進む力。5つの力の中で、一番、習得が困難。どう身に付けるか?答えはないが、僕の解釈するに、経験、感度、アンテナ高さかな?その訓練の連続かな?
【読書感想】
まぁ、MBAは、ビジネスプロを養成する予備校だから当然だし、ましてや、作者である石倉教授は、我がスクールの副学長であるから、この本で書かれている要素は、我がビジネススクールで、クラス討論、問題提起の中で、常に生徒達に問いかけられている。その毎日なんだけど、自分もプロフェッショナルに憧れる故、今、苦労している事が、「自分の腕を磨く」ことにつながると、堅く信じる。この意気込み、この思い、この気合は、時が経つにつれ、モチベーションが下がるにつれ、忘れがちになるんだろうなぁ~って想像する。そんな時、やっぱり、このブログで、Visualize&Describe させる事で、ずっと時が経過した時に、読み返したいよね。こんな自分も居たんだなぁ~って。どうか、このブログが10年後の自分にエールを送るものでありますように!


PS:
今テーマは、非常に長くなっているが、それでも、今日は、書く!この本の出版は、2005年5月25日発行。僕が、MBA面接を受けた時期が、2005年4月前半。運がいいか、悪いか、僕の面接官は、3人の教授で、彼女は、真ん中に座っていた。彼女は、この本のP200で、「表現力」のテーマで、次のようにコメントしている。
私の所属するXX大学の国際企業戦略研究科では、英語でMBAプログラムを提供している為、面接はもちろん英語で行う。その応募者の中に、日本人なのに、英語ですばらしい受け答えをするビジネスマンが現われた。なのに、これまで、15分程度英語で自分の発表をした事があるだけで、外国に住んだ事は全くないという。彼は、自分の見解をはっきり持ち、何しろ、伝えたいという意欲が高く、海外経験がないとは思えないほど、自由に自分の意見を述べた。この面接は、面接を受ける側にとって合格という良い結果になっただけでなく、面接をする側にも楽しく有意義な経験、学ぶ機会となった。
僕は、30分の面接時、凄くリラックスして話すことができ、自分でも驚いている。面接終了後に、その充実感から、すぐに、奥さんに電話した事を思い出す。天気が良い日で、神保町から東京駅まで、うれしさと開放された気分で、歩いて帰ったのを思い出す。今、振り返るに、神が降臨して、僕ではない、誰かが話している様な錯覚を覚えるほど、流暢に英語が出てきた。下手したら、今よりも、イケていたかもしれない。実は、彼女の本でのコメントは、僕ではないか?っと思っている。そう信じたいし、そう信じている。
なぜなら、クラスメイト48人の中に、道産子の日本人は、7人いるが、面接は、3分割されていたし、確率的にも、僕だと思いたい。更に、面接では、彼女から、「今まで仕事で英語どのくらい使ってました?プレゼンした事、ありますか?」って聞かれ、「マレーシア営業時代の、15分レベルのプレゼンが一番長い発表です。当時は、ドキドキで、覚えていないが、プレゼン終了後、駐在員の上司から、何を言っているのか、伝わらなかった。もっと、英語を勉強しろよ!って冷たく言われた事が、今日の僕に繋がっている!」っと答えた記憶が鮮明に残っている。これ以外にも、ビジネスにおける、アジアとアメリカでの違い、そこでの葛藤、自分のセンスのなさを、いたってリラックスして笑いながら回答したのも覚えている。自分は、仕事に関しては、人の2倍はこなしてきたし、実践においては自信があるが、今後、アメリカ人、インド人を説得させるには、理論を身に付ける必要性を感じ、このMBAで学びたい!とも熱く語った。最後に席を立つときに、彼女は、握手をしてくれて、「今日の面接は、楽しかったわ。あなたから、刺激をもらったわ。」っと笑顔で言ってくれた。その後の、僕の面接最後のコメントは、「期待してください。TOEFL点数は、要望スコアに未達だが、入学までに、あと4ヶ月ありますから、突破する事、約束します。」っといって、本当に、言いたい事だけ、言い切って、面接部屋を後にした。TOEFLの点数は、結果的には、面白いほど、横ばいだったけどね。 えへへへ。
実は、同じ日、面接の結果報告をした際には、2人目を身ごもっていた奥さんは、「まだ、大丈夫そうよぉ~」なんて会話をして、僕は、新幹線で、のんびり故郷へと向かっていた。掛川を通過した辺りで、携帯に電話が入り、「陣痛で、いまから、入院する!」っと連絡が入った。家に着くなり、そのまま、産婦人科病院に駆け付け、21:00過ぎに、「おぎゃぁ~!」って第2子誕生。面接&次男のHappinessが2つ降臨した日でした。
実は、奥さんにも感謝している。頑張って、出産予定日を調整できるものでもないと思うが、きっと、僕のMBA面接(正直、人生掛けていた)を気遣い、その結果、ぎりぎりまで、我慢してくれていたのかなぁ~って、感謝している。僕は、3つのHappinessを手に入れた瞬間だったんだろうね。
あぁ~、あの面接が、もう14ヶ月前かぁ~。次男は、すくすく成長し、最近は、自分でも歩けるようになって、外も散歩するようになった。次男の成長ぶりに比べたら、パパは、超スローだけど、少しは、ビックになったかな?