2007年8月9日木曜日

ビルマ独立30人志士


1940年(昭和15年)の暮れ、“ビルマ建国の父”ことAung San(左写真、アウンサン将軍、ノーベル平和賞受賞のアウンサンスーチーは実娘)をリーダーにビルマ独立に向けた30人ものビルマ人青年が、静岡県浜松市にて亡命生活を送っていた事実を御存知ですか?アウサンを筆頭に、その独立30人志士が、日本でビルマ建国シナリオを描いた事を記念し、浜名湖を望む舘山寺大草山の頂上には、「ビルマゆかりの碑」が立てられています。今、幽閉の身となっているスーチー女史(AungSan将軍の娘)も、この大草山の地を訪れた事があるそうだ。
ミャンマーでは毎年3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げるそうです。このパレードはいきなり日本の“軍艦マーチ”から演奏し始めるらしいです。続いてミャンマーの軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の軍歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。ビルマ人は、日本を尊敬しているからか?まぁ、私見は、最末尾に書きます。(途中は、飛ばしてもいいから、私見は読んで!)歴史は、知らなければそれまで。知ってしまうと、その因果関係に嵌ってしまう。その因果関係を下記に紐解く。
Aung Sanの視点
当時のビルマは、イギリスの植民地政策の下、インド&中国系商人にビルマ産米の取引を一任させていた為、ビルマ農民は、非常に苦痛に耐えざるを得ない生活を余儀なくされる。AungSanは、ヤングーン大学時代から反英主義を主張する学生運動の中心的人物であった為、1930年代後半は、イギリスによる政治運動家弾圧から逃れる為に、ビルマ地方に隠れながら、逃げながらの状態となる。大国イギリスと、どのように戦って独立を果たすか?仲間達と逃げながらも戦略を立てる事となる。
日本陸軍の視点
日中戦争真っ只中であり、この時には、蒋介石は、南方へと追いやられているが、米英が蒋介石を支援する所謂、蒋介石ルート(4本あり、インドシナルート、ビルマルート、ソ連中国内陸ルート、中国沿岸ルート)を絶つ必要があった。1940年には、ビルマルートの軍事物資輸送量が増してきており、遮断したいが南アジアの事情に精通していない為、スパイという形で鈴木敬司大佐をタイへと派遣し、東南アジア情勢を把握する事を命題とする。1940年当時、日本海軍はラングーン在住の予備役大尉国分正三を通じて早くから情報収集に努めていた一方で、日本陸軍が持っていた情報は無きに等しかった。1940年6月、鈴木大佐は日緬(ビルマ)協会書記兼読売新聞特派員「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員(AungSanが大学時代に結成した政治団体)と接触した。そこで鈴木大佐はAungSanたちがアモイ(ビルマ地方)に潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。11月、AungSanたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。鈴木大佐はAungSanに「面田紋二」、ラミヤンに「糸田貞一」の偽名を与えて、ビルマを脱出させ、日本へ亡命させる事となる。
鈴木敬司陸軍大佐とは?
鈴木大佐はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。こうして、外国勢力の援助を欲していたビルマ民族主義者と日本との提携が成立へと動き出すのである。1941年2月1日、陸海軍大本営は、直属の特務機関「南機関」を正式に発足した。南機関とは、いわゆる、日本版CIA特殊部隊である。鈴木大佐は、その最高責任者(機関長)っとなった。実は、この鈴木敬司少将(出世)こそが、我が郷土の浜松出身なのである。1967年(昭和42年)に70歳で他界されている。
鈴木敬司&AungSanの連携
ビルマのイギリスからの独立、日本軍の東南アジアへの勢力拡大の思惑がマッチし、お互いにとって不可欠な存在となる。まさに、歴史が2人の関係を築いた事になる。浜松で体制を固めた30人志士は、その後、海南島にて特殊軍事訓練(これがとてつもなくハードだったらしい)を積み、バンコクへと進み、1941年、ビルマ国民にとっては偉大な存在となるBIA(Burma Independent Army ビルマ独立義勇軍)を旗揚げする。後に、日本軍のビルマ侵攻と共に、独立に希望を抱くビルマ国民がBIAに参加し、その数は、27,000人にも達したそうである。
義勇軍の司令官には青年たちが心から慕う鈴木敬司大佐が就任した。AungSanの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で、イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつかかならずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれるというボモージョ伝説を演出したものでした。鈴木大佐は、ビルマでは、「雷帝」と言われているそうです。もちろんビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させてしまいます。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです。
歴史の皮肉
しかし、日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まってくる。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのである。また、別の見方として、ビルマ全土を解放した後、南機関は即時にビルマ独立を主張したが、現地日本進駐軍はそれを認めず、1942年に南機関は事実上解体され、1943年8月にやっと認めたビルマ独立も、初代首相バモー、国防省AungSan体制で日本軍監督下におかれ、結果として当初のAungSanとの独立約束を反故にしてしまったことも追加する必要がある。
それまで日本とともに闘ってきた30人志士たちも動揺します。バー・モウ(後の初代首相)やボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してたそうです。けれどもAungSanは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」であるとバー・モウ(後の国家元首)に手紙を書き、1945(昭和20)年3月、ついに日本に反旗をひるがえすのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。
ビルマ独立宣言&AungSanの夢直前にして・・・ 再び植民地支配を目指すイギリスに対してAungSanは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。もう昔の従順なビルマ人ではなかったのです。そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかし、しかし、この席にAungSanはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。
日本の大東亜戦争をビルマ人はどう解釈するか?
初代独立後のビルマ首相バー・モー(Ba Maw)は、自書「ビルマの夜明け」の中において、次の様に、大東亜戦争を評価している。「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく(イギリス政府が、ビルマ独立を承認した日)、1943年8月1日(日本軍主導でビルマ独立)に行われたのであって、真のビルマ解放者はイギリスのアトリー内閣率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」っと、20年後に記している。BaMawは、1943年11月に東京で開催された大東亜会議に出席している。その際、大東亜宣言が採択された会議である。(台湾、フィリピン、満州などの最高責任者が集う会議だったが、関係国からの修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされず、全会一致で採択された宣言であった)

私見 (これが、一番重要)
BaMawの日本びいき、現在ビルマの国軍記念日に軍艦マーチ♪が流れることで、大東亜戦争が美化されるべきものでもない。そんなに単純ではない。現在、ミャンマーの歴史教科書には、当時の日本をファシスト、イギリスを帝国主義と書かれているそうである。歴史は、そんなに簡単に論じられないと痛感するのは、ミャンマーからの留学生に、「ならば、日本は、ビルマ独立貢献国として、喜ばれているのか?」って聞いたところ、「・・・・・」だからである。複雑である。

だからといって、僕は、あの戦争の全てを否定したくないと考えている。当時のアジアは列強支配だったし、日本は島国だから列強にとったら魅力なかっただろうけど、列強の恐怖は感じていただろうし・・・。大東亜共栄圏の思想は、手段こそ誤ったものの、思想自体は素晴らしかったのではっと思うところもある。あの思想を日本軍(武力)主導で行ったことが失敗だった。あの時、アジア植民地代表が東京に集い、軍事的手段でなく、政治的手段(非暴力闘争、植民地同士の対等関係)で解決策を求めたならば、Aseanコンセプトだし、EU(ヨーロッパ連合)よりも半世紀以上も前に、国境もない、通貨も同じ、アジア共同体が夢見れたかと思うと、悲しい限りである。あの時、日本人、韓国人、中国人、ビルマ人、ベトナム人って分類したけど、“アジア人”っと皆が言えてたら、とてつもなく美しい。

ビルマといえば、「ビルマの竪琴」が、日本では、少し有名かな。僕は、著者の竹山道雄氏を、作家として評価するよりも、1940年日独伊三国軍事同盟締結の際に、全体主義(民衆一人一人の自由、権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理)の台頭に対し、文学者として警告を発していたことを評価している。しかし、別の見方をする人がある。それはそれで、宜しいかと思う。別の視点で、戦争批判をしなかった知識人の不作為責任を追求する評価もある。大いに議論したら良いと思う。議論する為に、もっと事実を勉強したら、もっともっと良い事だと思う。

今まで、このブログでは、戦争を避けてきた。重い話だし、単純ではないし、ややこしいし。本当は、避けたかったけど、8月は、広島&長崎だし、終戦記念日ってのも控えている。今年の靖国は、どうなることやら。日本人である限り、あの昭和史は避けて通れないだろうね。いや、僕は、日本人だからじゃなく、アジア人として、あの戦争を今後も見つめて行きたいと思う。そろそろ日本人だからって言うか、日本国籍だからって愛国心もないし訳だし、どちらかっていうと、僕は、アジア人(地球人)になりたいと思います。

参考文献:
ビルマの大東亜戦争―雷帝と呼ばれた男/鈴木敬司 Amazon
ビルマの竪琴をめぐる戦後史 By馬場公彦(法政大学出版局) Blog
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