2007年8月15日水曜日

◇◇昭和全盛期◇◇

----- 以後、詳細トピックス(苗字は、都合上、555置換え) -----
黒字   =インターネット記事のコピー主体
赤字   =トピックス(偉業)
青字   =555感想コメント




555初雄 純平の長男
英国エジンバラ大学卒、宮内省下総御料牧場(三里塚)。 はじめは、御料牧場ってなんだ?って思って調べてみたら、面白かった。明治初期に、日本の牧羊場、牛馬畜改良の為の施設で、昭和に入り馬の繁殖等で、英国よりサラブレットを輸入したりと、日本の牧畜業の先駆け的施設。大久保利通発案。 最終的には、内務省から農務省管轄に移されるが、馬だけでなく牛乳、肉加工の研究所的位置付けかな?競馬で大損した事のある僕としては、第1回東京優駿大競走の優勝馬ワカタカ、三冠馬セントライト(1938-65)は、この御料牧場出身。

想像するに、初雄氏は、エジンバラ育ちの堪能な英語を駆使して、サラブレッドの輸入、当時の家畜先進国からの講師の対応とかしてたのかなぁ?まぁ、セントライトとは、時期的にもかぶるだろうし、触ったんだろうなあ。。。後に、この御料牧場は、1969年に成田空港建設敷地の一部となり閉鎖されている。

*晩年の初雄氏は、長男といて、浜松市天王町主屋にて暮らす事となる。僕の実家とも御近所ですので、その当時の様子を祖母に聞いてみると、お月見とかで、近所の子供達を招いて、遊戯会みたいな催しを提供し、祖母&実父は、その席に参加している。実父は、幼いながらに、「月がでたぁ~でたぁ~♪」って合唱したはいいけど、音痴の癖して、声が大きかったらしく、母親として赤面したそうだ。祖母は、本人には、言えないけどね・・・って言うけど、今となっては、祖母93歳、実父68歳だから、そろそろカミングアウトしてもいいのでは?まぁ、実父は、400年祭記念撮影でも最前列キープするツワモノだから、度胸はあるわな。

*初雄さんは、晩年、浜松の自宅にて過ごす。私が幼少の時、彼の葬儀は、浜松市天王町の正家にて執り行われました。僕は、幼稚園生だったんじゃないかな?って思う。霊柩車にグレードはないと思うが、綺麗で立派な霊柩車が僕の前を通り過ぎていった。晩御飯を準備していた祖母にすぐに、「霊柩車を見たよ!」って報告したところ、祖母は、「あの人は、立派な人なんだよ。東京に長くいたけど、頭がいいんだよ!」って話してくれた祖母。初雄さんが、僕の1メートル先を通り過ぎていった。



555道雄(1903-84)  純平の次男、初雄の弟、謙三郎の兄
銀行員純平の息子として大阪に生まれる。父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごす。 東京府立第四中学校(現在の東京都戸山高等学校)から第一高等学校を経て、1926年に東京帝国大学文学部独文科卒業。ドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省に派遣されてベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となる。戦後、第一高等学校が東京大学教養学部に改組されてからも教授を続け、1951年に退官してからは上智大学などの講師を歴任した。

訳書にニーチェ『ツァラトゥストラ』やヨハンナ・シュペリ『アルプスの少女ハイジ』など。日本におけるシェヴァイツァーの紹介者としても知られる。小説家としては、一高教官として多くの教え子を戦場に送り出した体験に基づき、1947年に『ビルマの竪琴』を発表。

評論家としては、1940年、日独伊三国同盟締結に際して『ドイツ、新しき中世?』を発表し、全体主義の台頭に警鐘を鳴らした。戦後は、1950年代から、当時の日本の盲目的な社会主義賛美の風潮に抗してスターリズムへの疑念を表明。中道保守の立場から、左右双方の全体主義に警鐘を鳴らし続けた。1983年、日本芸術院会員。著作集全8巻がある。

*左右双方の全体主義に警告をならす?これは、僕が目指す、Brigde的役割では?また、ビルマの竪琴は知ってたけど、アルプスの少女ハイジは、熱狂したし、国費留学された才能、第二次世界大戦前のあの日本において全体主義への警告を発せたその理念を尊敬します。



ビルマの竪琴と中村兼二の関係
中村兼二(1916-1944)は早稲田大学で卒業時に小野梓賞を受賞するなど将来を嘱望されていたが、第二次世界大戦で応召し、昭和19年にビルマで29歳で戦死している。このことは中村與資平が戦後、相坂建築事務所の顧問に就任したものの、自らは建築活動を再開しなかった最大の原因であろう。なお中村兼二の名は555純平の次男555道雄(1903-84)の小説「ビルマの竪琴」のあとがきに、執筆の動機となった身近な戦没者の一人として記されている。また中村與資平は静岡県教育委員時代の1956(昭和31)年に郷里天王町の中村家の墓地に武島羽衣の和歌を刻んだ追悼の石碑を建立した。

*555家の過去功績をさかのぼる時に、中村家との建築ビジネスを介したつながりが深く、切っても切る事ができない関係にある。名門・中村家の直系実家は、天王町東にありましたが、ここ10年間で、悲しい事に取り壊されてしました。私の実家から東に無呼吸ダッシュで5分ほどの距離にありました。小学生の時は、爆竹投げて遊んでましたが、とてつもなく広い敷地でしたので、問題はありませんでした。この中村さんは、建築家として数々の偉業を成し遂げていますので、最末尾にネット記事を貼り付けます。郷土の尊敬できる先輩の1人です。



555謙三郎(1908-86) 純平の三男
静岡県浜松市出身。1932(S7)東京帝国大学工学部卒。同年大蔵省営繕管財局、'46建設省建築研究所、'55同所長。 '61退職、東京都立大教授。'63鹿島建設技術研究所4代目所長、'64退職。 1966(S41)所内に電子計算センターを新設し、日本初の超高層「霞が関ビル」の建設に大きな貢献を果たした。 '68日本女子大教授、'71(社)建築研究振興協会会長。後、名誉会長。 その間'52日本建築学会賞(「木構造の研究」)、'53日本建築学会賞(「東京地盤図の作成」)、'78勲二等瑞宝章。謙三郎は建築構造学の重鎮として活躍した。

謙三郎が日本女子大教授の時に、元浜北市長吉田氏の娘・清子が大学の教え子でもあり、同郷のつながりで、教授宅を訪問しており、その際、随筆集2冊を頂いてきている。清子氏曰く、美智子妃殿下が娘時代、555家の「若い人たちの教養の会」に参加されていた事が綴られており、美智子様との出会い、お人なり、エピソードが書かれている。



555 文子 純平の娘、謙三郎・道雄の妹
3兄弟大臣といわれた(船田中、船田享二、藤枝良助)船田家の船田享二と結婚元主婦連副会長を務める。参考に、元NHKアナウンサーの畑恵との政界失楽園(今で言うなら、愛の流刑地?)の主人公・船田元は、船田中の直孫にあたる。また、船田中の実父は、あの江川・作新学院(栃木)の設立者。主婦連合会は、1948年、不良マッチ退治主婦大会を契機に、しゃもじ&エプロンをシンボルに不当表示商品への抗議、物価問題、各種訴訟などの消費者活動の先頭として活動。

*555純平の3兄妹は、1980年代半ばに、この世を去っているが、長上(浜松市天王町)が日本に誇る3つの顔と言っても良いのではないでしょうか?これは、すごく誇りだし、僕も生きていた時代だから、手が届きそうで、身近で、でも、すごく偉大で・・・。