2007年8月17日金曜日

◇◇江戸初期~末期◇◇

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藤原氏555家系図 
長上郡のうち天王郷といわれた土地で、そこは後に寛文年間(1661~1672)頃に分村して下堀村と呼ばれるようになる地区であるが、大竹藪をめぐらした屋敷を構える鷹森(高森)太郎左衛門重治がその元祖であり、慶長8年(1603)に死亡した。所謂、2003年が死後400年という事になり、静岡県市野町にある宗安寺に、約60人の子孫が集ったそうである。555実父が、集合写真で、最前列をキープしているあたり、度胸だけは尊敬します。もともと555家は、高森(鷹森)姓から始まっている。織田信長が今川義元を桶狭間で破ったのが、1560年であり、この今川義元の地侍であった高森左衛門重治が、下堀に逃れてきて土着したとされている。

天正年間に浜松城主であった徳川家康が、領内の巡視と、領民の心をとりおさえるために鷹狩りを行い、しばしば、高森家に立ち寄った。庭内の梅の木に鷹をとめてたので、その梅の木を鷹梅と呼ばれたといい、屋敷は大竹藪を周囲にめぐらし、年中多くの鳥が集まっていたので、家康は、555と繰り返し、ついに、家康の命によって、高森を555と改姓したと言われている。その広大な領地は、天王村の堀を巡らせた555孫左衛門家屋敷図(家相図)にも屋敷森が画き込まれている事からも推定できる。この由来は、555家から藩庁へ提出した文書には言及されることを常としたり、前掲の「藤原家555家系図」 に特筆大書きされたりしているほどに、近世では権威の証であった。「藤原氏555家系図」 上での年紀の下限は、享和3年(1803年)であるが、その時点では、20家を数えている。これ以後、幕末期には、例えば、位牌座をもつ555家は、18家あり、これから見ると、近世を通じて、555一族を構成する家数は、ほぼ推定できようか。

*要するに、555家は、高森(鷹森)姓から始まる。詳細は、高森→555→鷹森→555。555姓は、倒幕&明治維新の情勢上、公にする事は幕府支持を表現する為、当時の直系以外は、555姓を一時辞め、鷹森姓を名乗ることとなる。しかし、再度、時代の平安と共に、555へと戻す者もいた。僕は、この家系図を13歳の時に、手に取って見た事あるが、タタミ半畳くらいの大きさで、でも、上記にあるように、幕末までしかなく、その後、どうなってんだ?って、人の名前、系図線いっぱいで、混乱したけど、今、同じように、この家系図を握った時に、何を感じるだろうかな?



江戸末期の555家(弓術)
寛政年間(1789~1800)に孫左衛門家9代目の茂敦が袋井の木野理兵衛武住から相伝を受けて印西派13世を継いで以来、3世に渡り弓術を継承する事となる。日置流は室町中期に大和の日置弾正正次が創めた流派で、雪荷派、印西派などあるが、そのうちの印西派が見附(現在の磐田市)の上村清兵衛によって遠州に伝えられ、15世を継いだ孫左衛門茂清(前述茂敦の息子)の代には、遠州だけでなく三河にも広がって門弟は千人を数えたと言われる。

弓術は精神修養の手段として礼法化すると共に、競技としても人気を集め、遠州地方の神社には矢場(弓道場)を設けた所が多く、江戸時代から昭和戦前期にかけて奉納競射会が盛んに行われ、名人達が技を競った。競技会では的を次第に小さくしてゆき、最後には直系2寸(6cm)の的を15間(27m)の距離から射ることは殆ど困難であるから、みごと射抜いた者は、その的を奉納した。今でも神社の拝殿に奉納額が残っていることがあり、その額には、「日置流印西派555孫左衛門門人・誰某」と書かれたものが多い。



賀茂真淵(かものまぶち)1697~1769
時代は前後してしまうが、江戸中期の歌人・賀茂真淵とも繋がりがある。555家の後世の娘を母とした賀茂真淵は、次の歌を読んでいる。「むかし君 み袖ふれけん 梅がえの いまも香るか あはれその花」 意味は、学不足の為、ここでは省略。

江戸中期の国学者(日本国学の4大人の1人-荷田春満、賀茂真渕、本居宣長、平田篤胤) 遠江国伊場村(静岡県浜松市)の加茂神宮神職、岡部家の分家に生まれた。同族岡部政長の婿養子となるが、妻と死別したのち実家に戻り、浜松の脇本陣梅谷家にむこいりする。若い頃より荷田春満の門人杉浦国頭に学んだ真淵は、この頃学問に目覚め、37歳で上京するたびに春満に会い、儒医渡辺蒙庵に漢学を学び、享保十八年(1733)梅谷家をはなれて京都・江戸に遊学して各地で古典の講義をした。延享三年(1746)50歳の時に御三卿の田安宗武(八代将軍吉宗の次男)に和学御用として仕えたのちは、宝暦十年(1760)研究に没頭し隠居した。真淵は「万葉集」を研究し、万葉風の和歌を復興しました。また、「古事記」「万葉集」や祝詞(のりと)の研究を中心に古代精神、すなわち古道を説き明かす国学で、春満の古道のほか荻生徂徠の古文辞学や老荘思想の強い影響がみられる。歌の注釈書である「万葉集」思想を語る「国意考」枕詞の研究書「冠辞考」など真淵の著述は、語学・古典研究・歌学・思想・歌文集・雑録など87部309巻もあります。

宝暦十三年(1769)真淵が伊勢参宮の途中、松坂の宿に本居宣長が訪れて入門し以後絶えず文通で真淵の教えを受けた。生涯に一度だけの対面だったが、真淵の門人となり、その後は手紙のやり取りで教えを受けた。門人も本居宣長はじめ優秀な門人を多数養成した。享年73歳江戸で亡くなる。

*江戸中期、どんな環境が揃えば、学を積む事ができたのだろうか?当時にしてみたら、田舎遠州から江戸へ上京するとは、どれほどの困難やハードルがあったのだろうか?今から、300年も前に、教養を追求する事とは。。。郷土の尊敬できる先輩だなぁ~。



姓由来(家康)&江戸時代弓術日置流  リンク先