2007年8月18日土曜日

Happy Harada (原田)


日本の夏、猛暑の夏には全然相応しくない今回のネタとなりますが、先日、2014年冬季五輪の開催地がロシア・ソチってところに決定しましたよね。どこですかね?黒海に面するリゾート地らしいですね。これで、残すは、東京が立候補表明している2016年夏季オリンピックに注目シフトできますね。

オリンピックって素晴らしいですよね。モスクワ五輪では、冷戦の中、辞退国多発しましたが、その後、競技祭典に政治マターを織り込むことは如何なものか?っと言うことで、参加国&規模共に拡大の一途です。台湾が、Chainese Taipeiとして参加している事は、美しいです。私は国家主義者ではないので、「がんばれ、日本!チャチャチャ♪」にはついていけないところありますが、オリンピックの競技映像からは、ジーンとくるシーンがたくさんあります。
冬季に限定しても、サラエボ(84年)で黒岩彰失速には、幼いながらに興奮したし、極限の緊張感を背負うアスリートって凄いなぁ~ってのを覚えています。カルガリー(88年)で、その黒岩彰が銅メダル取るあたりにリベンジの原点を知りました。めちゃくちゃカッコウ良いことですね。アルベールビル(92年)は、ちょうど、一浪していた僕が、2度目の大学受験をしていた時であり、最終的に母校となる大学受験日前夜、ノルディック複合(荻原健司、三ケ田、河野)チームは、2日目のクロスカントリーを激走しており、受験前夜にも関らず、巣鴨駅周辺のホテルで、荻原が日の丸国旗を抱えながらのゴールシーンに酔いましたし、勇気を貰いましたし、お陰で眠たかったです。その後は、伊藤みどりの長野(98年)、???のソルトレイク(02年)、荒川静香のトリノ(06年)っと続く訳です。世界に誇れる日本人達ですね。男性アスリートしては、弾丸清水宏保は、水泳で言えば北島康介っと匹敵するくらい、皆が期待する通りに、自分が描くシナリオ通りに、パーフェクトに勝つあの実力、そこに至るまでの自分を追い込むプロセスは尊敬に値しますね。

さて、僕が、心から尊敬し、人間性としても理想とする選手は、実は、上記には挙がっていないアスリートです。彼の名は、Happy Haradaです。原田雅彦です。あのジャンパーです。彼のスタイルは、起死回生の大ジャンプ、リレハンメル(94年)の失望失速、トリノでの規定違反失格っと、浮き沈みが激しいです。全然、安定してないです。しかし、僕は、心から彼を偉大だと尊敬し、自分のあごがれるキャラクターなんです。



原田の偉大さ
①リレハンメルの失速
よほどの大失敗ジャンプしない限り金メダル確実のジャンプ団体の場面、原田は最後の一本をアンカーとして飛ぶこととなる。原田の前には、ドイツのエースが135.5mのスーパージャンプしたのを確認し、日本国民の期待は、原田にのしかかる。ドイツ選手の結果を受けて、105m以上のジャンプで日本の優勝は決まる場面、あの失速ジャンプ(97.5m)の結果となる。日本団体は銀メダル獲得にも関らず、原田は最大のバッシング、冷たい視線を受けながらの帰国となる。

ジャンプを勉強してみると、滑走路を下り、踏み切り盤経過時のスピードは100km/hにも達し、実質の踏切るタイミング許容距離は80cmと狭い。そこに合わせて踏み出さなくてはならず、船木は平行前方へFlyするが、原田は彼のこだわりで上空前方へとFlyする。これを変えない。
実は、94年リレハンメル前後は、原田よりも葛西が絶好調であり、本来、葛西がエースとしてアンカーすべきであったが、まさに重圧からか、葛西はリレハンメル期間だけ絶不調。その為、本番で強いっと評判であった原田がラストを努める事となり、あの失速を迎えたのであった。 あの場面、自分がラストジャンパーだったら、どうします?また、失速ジャンプの後、どうします?


②長野のスーパージャンプ
ノーマルヒルで、再度の失速。メダルを獲得できず、翌日のラージヒルを迎える。その一本目、また、距離が出ない。世間は、「もう原田は、ダメダァ~」って思ったんじゃないかな?当時、僕は、大学4年生で、卒業間近の春休み。巣鴨のオンボロアパートで一人テレビ観戦しながら、「2本目、2本目、行けるから・・・・」って応援してたのが懐かしい。その2本目に計測不能のスーパー大ジャンプをする事となる。計測不能だから、飛んだ直後は、飛距離表示されず、結局、最後のジャンパーが着地した後に、数分の間をおいて、135mっと発表された。結局、一本目失速が響き銅メダルと終わるが泣いた。本当に、彼には感動した。号泣したし呼吸困難になたっし。

最後の締めくくりは、団体ジャンプ。長野のエースは、船木だった。原田は3番手の順番で、一本目飛ぶが80m弱。確かに、映像は吹雪だし、風時代も原田に味方しないし、外部環境が彼を見放した。長野時代では、本番に弱いっとレッテル貼られていた。感動は、二本目の137mジャンプ。もう、ある意味、彼を信じることはできないだろうね。波が大きすぎるし、決めて欲しい時に決めてくれないし、駄目だぁ~って思ったらそれを裏切ってくれる。彼曰く、複雑骨折してもいい!との覚悟でのジャンプだったそうだ。その後の船木も無事に決め、祝金メダル。

実は、長野前の世界選手権、ワールドカップは、原田は絶好調で地元長野開催のオリンピックは、エース的存在であった。現役世界チャンピョンの王者なのである。しかし、マスコミは、本番に弱い原田のレッテルを貼り、世界王者に対する扱いとは程遠かった。アンカーの船木のジャンプを待つ下から見つめる原田は、意味不明発言を繰り返し、精神心理学専門家も、その極限の原田精神状況を「破壊」っと読んでいる。 あの場面、自分が原田だったら、滑走前にリレハンメルがヨギルよね?打破できる?

③トリノの失格
2006年トリノでは、日本ジャンプ陣にとっては、痛い規定改訂に直面する。所謂、飛びすぎ防止の身長&体重から計算された板の長さ変更である。ややこしい話だが、原田が174cmならば、板の長さは254cmまでが限界で、体重(ブーツ含む)が61kg以上なければならない。検査の結果、60.8kg(200g足りない)。仮に原田が173cmならば、253cm板となり、体重60kg以上が規定となる。実質、そのシーズンの原田は、173cmなのでセーフの筈だが、なぜか、オリンピック国際スキー連盟に提出された申請値は、前年シーズンの値(174cm)だったことが判明。

マスコミは、コーチ等が試合に集中できるように選手環境整備をしないといけない身分にありながら、選手任せにしたコーチ陣を指摘した。原田は多くを語らなかった。不平不満を言わなかった。テレビカメラの前では、「勘違いだった」っと笑って答えた。だから、誰の責任なのか、未だにハッキリしていない。あの場面、自分が原田だったら、どうする?コーチ殴る?正直に、テレビに全て言っちゃう?悔しくて、取材拒否する?


最後に僕が、原田を理想するのは、一発狙いの大飛躍(その豪快さ)って事では全くない。彼の人間性が大好きだ。苦しい時、悲しい時、絶体絶命の時に、いや、苦しければ苦しいほど反比例するように、彼は、いつも笑っている。そして、嬉しい時、偉業達成した時には、逆に、泣き崩れる。自分は、そんんな大人(親、上司)になりたいと思っている。

最後の最後に、上記ストーリーを十分満喫できる原田映像をYouTubeで御覧ください。「これからも、何回も復活します。」金と同じと書いて、銅っと呼ぶ」「みんな頑張ってるんだ!」「ふなきぃ~、ふなきぃ~」