2007年8月16日木曜日

◇◇明治維新~昭和初期◇◇

----- 以後、詳細トピックス(苗字は、都合上、555置換え) -----
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555家住宅主屋
静岡県浜松市天王町759-1.平成17年国有形重要文化財指定.登録番号=22-0099.昭和12年施工.木造2階

*参考までに、僕の実家ではないですよ。直系御主人が住まわれている主屋です。家系を400年たどれば、実家とも言えますが、まぁ、近所ですけどね。実家から北へ走って20秒くらい? 僕が幼少の頃は、広い敷地で、庭にある大きな木にブランコぶら下げたりして遊んだなぁ~。夜には、フクロウとか来て鳴いてるくらいの大きな敷地だったんだけど、でも、30年も経つと敷地事体も切り売りされたり、相続税とかなんかで、30年前の面影はないけど、後世に残せたらいいな。




555茂清(梅七郎) 
直系11代 与進小学校の前進下堀校を創設する(明治6年)。早くから教育に関心を持ち、慶応元年に吾憂社を郷学校として興し、明治元年に四教館と改称。福沢諭吉の教育思想を取り入れ、学問のすすめなど進歩的な教科書を採用し、あたらしい考え方を打ち出した。明治5年に学区制が取り入れられ、全員が学校教育を受けるよう奨励がなされると、梅七郎は先頭に立って、学校建設資金の寄付を仰ぎ、天王大歳神社の境内の一部を校地とし、西洋風の目を見張る校舎を建て、下堀校を創立した。

下堀校は、明治23年に与進尋常小学校と改称されるが、その「与進」の出典は論語の「勉学を志す子を、なぜ、放っておくことができようか、皆で、学ぼう」に由来しており、この命名者は、555梅七郎の長男兼三の師・漢学者で元吉田藩の小野湖山だと伝えられている。

*実祖父は、僕が高校3年生の時に他界しているが、よく祖父からは、下堀小学校は、それはそれは立派で、遠州地方で、あの当時、あれだけの西洋風の建物はなかったと自慢していた。確かに、後にこのブログで紹介する昭和初期の有名建築家・中村さんも、建築家を目指した理由として下堀小学校を挙げている。祖父は、その小学校を卒業している。時代は変わり、実父も、そして、僕もそこで初等教育を受けている。与進小学校、不滅だ!



555謙三(1850-1913)
直系12代 今 の静岡銀行の源流にあたる浜松の資産銀行(後に西遠銀行と合併し遠州銀行になり、昭和18年、一県一行主義の掛け声の元、静岡の三十五銀行と合併し、今の静岡銀行となった)などを創設した銀行家だが、明治維新の際には遠州報国隊に参加し、函館戦争や西南戦争にも経理担当として従軍している。しかし家督を継ぐためにやむをえず帰郷し、郷里に銀行、紡績会社、倉庫会社など多数の会社を興した、いわば当時の産業報国思想を実践した郷土の立志伝中の人物である。謙三は上京後、慶應義塾や大学南校(帝国大学の前身)で啓蒙思想をまなび、一時555家の家督を弟の平八郎に譲ってまで中央での活躍を志したが、家の反対にあう。東京へ行ったまま、なかなか帰らない謙三に対して、父梅七郎は掛川の報徳社の岡田良一郎(1839-1915)に説得を頼み、岡田は長文の書状を認め、分度(分相応の身の処し方)などの報徳の教えを引いて説得している。それが功を奏したか、結局、謙三は数年後に家督を継ぎ、銀行家、実業家、地方政治家(静岡県議会議員、浜名・長上・敷知郡長)として郷里の発展に貢献する道を全うする。




555平八郎 兼三の実弟
弟の平八郎は謙三の帰郷後、555家の家督を謙三に戻し分家したが、のちに浜松町長、浜松市長(3代目)をつとめているので、兄弟が共に地方政治と経済に貢献したことになる。


555 栄 兼三の実姉
掛川の岡田良一郎に嫁ぎ、長男良平(京大総長、文部大臣)、次男一木喜徳郎(内務大臣、文部大臣、枢密院議長)、三男純平(後に555家へ養子となり直系13代継承)を儲けた。掛川岡田家は、後にも述べるが、大日本報徳社(二宮尊徳の教え)を普及する事に尽くされた家柄。



555純平(1872-1942)
謙三氏の養子 直系13代
父親謙三が「青雲の志」をもって憧れた日本の「中央」における「立身出世」「産業報国」の夢は自分たちの代には叶わなかったが、つぎの純平、與資平(中村家子孫-建築家の道を進む。天王町出身)の世代に受け継がれ、海を越えた大陸や東京、静岡県などで銀行と建築の近代化という形で実現したともいえる。当時は役所や会社、銀行が立派な西洋建築を有することは今とは比べ物にならないほど大きな意味を持っていた時代である。そのためか、純平が謙三の名をとって名付けたという三男の555謙三郎は帝大を出て建築家になり、中村與資平の次男兼二は早稲田大学で建築を学び後継者として期待された。

純平は父親謙三の姉栄子の嫁ぎ先である掛川の岡田家の当主岡田良一郎(1839-1915)の三男で、11歳で555家の養子になっているが、その後、掛川の冀北学舎(現掛川西高の前身)、東京帝大経済学部を出て第一銀行に入り、京城支店支配人、本店監査役、静岡銀行の前身の一つである遠州銀行取締役などを務めている。

純平は第一銀行が朝鮮との関係を深めるのにともない、現地での建築需要が高まると考え、協力を得るために、同郷の中村に建築家への転向を勧めたのであろう。建築を学ぶために東京へ移ったのは、当時京都帝大にはまだ建築学科が無かったからであり、第一銀行本店の建築設計で関係の深い辰野金吾が主任教授として在任していた東京帝大に進んだのも、純平らの助言に従ったと考えられる。

中村は東京帝大建築学科への進学後、純平の妻いつ(田代逸)の妹きし(田代岸)と結婚し、両家は姻戚関係になった。田代家は旧天竜市(旧二俣町)で代々庄屋をつとめ、天竜川流域で回漕業(回船問屋)を営んだ旧家で、当主の田代嘉平次(1842-1916)は、初代二俣町長をつとめた人物である。その長男の英作(1864-1936)も二俣町長をつとめたあと、静岡の三十五銀行や朝鮮の漢城銀行の支配人をつとめるなど、中村の建築活動をめぐる人脈といえる。

純平は三男謙三郎の手記によれば、日露戦争(1904-5年)当時、銀行団の一員として軍に徴用され、軍資金を中国東北部の満洲の最前線に届けるなどしており、外地の情勢に明るかったと思われる。この時、純平は父謙三が明治維新の際夢見た活躍の舞台の再来を感じ取っていたのではないだろうか。具体的には第一銀行の支店網の構築には信頼できる建築家の協力が不可欠であり、当然中村與資平の名前も頭に浮かんでいたはずである。純平は與資平が帝大を卒業し、辰野葛西事務所に入った翌年の1906年に第一銀行の京城支店副支配人に就任し、渋沢栄一頭取の訪韓の際には韓国総支店建設予定地の視察にも同行している。中村與資平が下見のため韓国に初めて渡ったのはこの翌年の1907年の秋である。

純平は第一銀行韓国総支店(後の朝鮮銀行本店)新設工事を事務長として、中村與資平は工務長として、二人三脚で完成させ、朝鮮半島での発展の足場を固めた。また同時期に5年がかりで行われた浜松の謙三邸母屋新築の際には中村與資平が設計を行っている。完成前に亡くなったため謙三自身は住むことがなかったこの和風豪邸の設計をまだ駆け出しといってよい與資平に任せたことは、謙三の期待の表れであり、與資平にとっても貴重な経験を積むよい機会になったはずである。なおこの母屋は戦後の1952年に與資平が顧問をつとめた相坂建築事務所による実測調査の後、旧天竜市の宗建寺に本堂として移築され現存している。

一方、純平の実家である岡田家は掛川の大日本報徳社創設者の家系として知られ、謙三の姉栄子が嫁いだ岡田良一郎は大日本報徳社社長のほか、衆議院議員、日本初の信用組合である掛川信用組合組合長、資産銀行取締役などをつとめた人物で、純平の二人の実兄、岡田良平と一木喜徳郎は共に東京帝大を卒業し、それぞれ文部大臣宮内大臣などを歴任した。報徳社は二宮尊徳(金次郎)の報徳思想を実践する社会団体で、その思想の中核は「至誠、勤倹、分度、推譲」で表わされるという。つまり、「まじめに働き、倹約して貯金をし、分をわきまえ、社会にためにつかう」というもので、明治、大正期に静岡県、中でも遠州地方で「遠州報徳運動」として大いに発展し、単なる道徳教育にとどまらず、産業、経済、金融などの発展に大きな影響を与えた。その具体的な影響として静岡県では一時は村ごとに中小の銀行が乱立し「銀行王国」ともいわれた。

純平と與資平は報徳運動とは直接の関係はないが、555家と岡田家の中央と静岡県における人脈は與資平の帰国後の建築活動に大いに役立ったと思われ、得意の銀行以外にも、官庁や学校、病院などの公共的建築を受注したほか、朝鮮の李王家関係の建物や個人の邸宅なども数多く設計した。

純平は朝鮮銀行発足後日本に戻り、第一銀行調査部長、常任監査役などをつとめたほか、東京製綱東洋生命などおおくの会社の役員をつとめた。そして1938年(昭和13年)に遠州銀行の取締役を辞し、三男謙三郎が設計した鎌倉材木座の家で晩年をすごしたあと、中村與資平が設計した母屋と謙三郎の設計した離れ(国登録文化財)のある浜松市天王町の家で昭和17年に亡くなっている

與資平自身、自伝に「自分が商売に全然素人なため」と書いているが、純平は中村與資平の建築活動に対して、言わばプロデューサー的な役割を果たしたと考えられる。中村與資平が事務所を閉鎖したのは昭和19年だが、昭和14年以降は実質的に建築家としての活動は停止しているので、中村與資平の建築活動は純平の経済活動とほぼ軌を一にしたといえる。

*あの日本資本主義の父・渋沢栄一のかばんを持って、韓国を訪問した先代は、彼から何を聞いたのだろうか?渋沢は、15代将軍徳川慶喜の命で、パリ万国博覧会に出席している。彼から、「この建物は、パリっぽいねぇ~」っとでも言われたか?しかし、歴史は、非常に複雑なのは、ソウルへの銀行建設・進出は、後の1910年-韓国併合への足固めとも言える。誰もが、歴史を振り返った時に、韓国併合、その後の大東亜共栄圏構想は、駄目という。僕も、駄目だと思う。考えさせられるシーンだ。

*今回の自由研究において、実祖母(大正2年(1913年)生まれ、現93歳)に電話で当時の様子をヒアリングした。純平さんと会って、会話した事あるそうだ。でも、当時は、女中さんが5人いて、その女中さん(彼女達は、家門にある部屋に住込)と事を済ますことが多かったそうだが、純平さんは、背丈は大きくはないが、非常に口数の少ない、静かな、でも、見つめる視線は優しい、カッコいい人だったそうだ。「・・・の妻か?どうした?なにかあったか?」ぐらいの会話であったそうだが、これって、すごい事だと思う。 場を共有した事だけで、既に、すごい。実は、今の555実家の土地も、祖母が祖父と結婚した時に、ボーナスとして純平さんの土地を分けてもらった事に始まるわけで、無呼吸で20秒全力疾走できるってことは、広い敷地だったんだろうね。