◇◇555家&中村家(天王町)◇◇
----- 以後、詳細トピックス(苗字は、都合上、555置換え) -----
黒字 =インターネット記事のコピー主体
赤字 =トピックス(偉業)
青字 =555感想コメント
555家&中村家との関係 (幼なじみ)
555家の過去功績をさかのぼる時に、中村家との建築ビジネスを介したつながりが深く、切っても切る事ができない関係にある。名門・中村家の直系実家は、浜松市天王町東にありましたが、ここ10年間で、悲しい事に取り壊されてしました。私の実家から東に無呼吸ダッシュで5分ほどの距離にありました。小学生の時は、爆竹投げて遊んでましたが、とてつもなく広い敷地でしたので、問題はありませんでした。この中村さんは、建築家として数々の偉業を成し遂げていますので、下記にネット記事を貼り付けます。郷土の尊敬できる先輩の1人です。
中村の自伝には、三高進学の当初は電気技師志望だったが、「建築家のほうが自営もでき、身の自由もきく」と聞き、専門を変えたと記されている。自伝には誰から聞いたとは書かれてはいないが、中村與資平をめぐる状況を考えれば、中央の事情に詳しい555謙三や、8歳年上で兄弟のように親しい関係にあり、帝大を出て活躍をはじめた555純平らの助言があったのではないだろうか。
與資平自身、自伝に「自分が商売に全然素人なため」と書いているが、555純平は中村與資平の建築活動に対して、言わばプロデューサー的な役割を果たしたと考えられる。中村與資平が事務所を閉鎖したのは昭和19年だが、昭和14年以降は実質的に建築家としての活動は停止しているので、中村與資平の建築活動は555純平の経済活動とほぼ軌を一にしたといえる。
中村は東京帝大建築学科への進学後、555純平の妻いつ(田代逸)の妹きし(田代岸)と結婚し、両家は姻戚関係になった。田代家は旧天竜市(旧二俣町)で代々庄屋をつとめ、天竜川流域で回漕業(回船問屋)を営んだ旧家で、当主の田代嘉平次(1842-1916)は初代二俣町長をつとめた人物である。その長男の英作(1864-1936)も二俣町長をつとめたあと、静岡の三十五銀行や朝鮮の漢城銀行の支配人をつとめるなど、中村の建築活動をめぐる人脈といえる。
中村與資平 (中村兼二の父)
韓国の首都ソウルの代表的西洋建築である韓国銀行本店(韓国の中央銀行=旧朝鮮銀行本店)、あるいは観光客でにぎわう徳寿宮の国立現代美術館別館(旧李王家美術館)、また中国遼寧省大連市の中心にある中山広場のロータリーに面してたつ中国工商銀行(旧朝鮮銀行大連支店)など、今も堂々とした風格を見せるこれらの建物は20世紀のはじめから1930年代にかけて、静岡県浜松市出身の建築家中村與資平によって設計されたものである。
中村による作品はこれらにとどまらず、韓国、北朝鮮、中国東北部、そして日本国内におよそ200件を数えている。建築後、すでに70年から100年近くを経過した今では、すでに存在しないものも多いが、かろうじて戦火や再開発の波を逃れ、役所や学校、銀行、病院などの現役の建物として、また国や地方の文化遺産として現存しているものも少なくない。
一方、日本国内には豊橋市公会堂、静岡市役所、静岡県庁本館、三十五銀行本店(静岡銀行本店)、李王家大磯別邸(神奈川県大磯町、通称滄浪閣)、大阪の済生会中津病院本館(大阪市北区)、長野の樋口病院(長野県小諸市・小諸病院)などのほか、出身地の浜松市にも遠州銀行本店(静岡銀行浜松営業部本館)と浜松銀行集会所(旧浜松銀行協会。2004年に浜松市に譲渡)が残っている。また贅を凝らした和風建築だった浜松市東区天王町の555邸主屋は戦後、旧天竜市(浜松市天竜区)の宗建寺に移築されている。中村與資平は明治時代の末期に建築設計を始めた建築家としてはめずらしく、今の国別で言えば4ヶ国にわたって民間の建築家として活躍し、多数の作品を残したが、戦後は建築家としては活動せず、公選の静岡県教育委員として晩年を送ったため、建築家としては長く半ば忘れられた存在だった。ようやくその再評価がなされるのは近代建築の再評価が始まった1980年代以降のことで、その間にも建物の解体撤去は進み、朝鮮銀行大阪支店、浜松市公会堂、遠州電気鉄道旭町駅(遠州鉄道新浜松駅)など中村與資平の主要作品も80年代までに解体撤去された。
しかし近年、静岡市役所や豊橋市公会堂が文化庁による登録文化財指定などを契機に本格的に修復され、完成当初の風格を取り戻したほか、大阪の済生会中津病院本館は解体後、2002年春、同じ場所に再建され、病院のシンボルだった美しいドーム建築がよみがえっている。また韓国、中国に現存する中村作品の多くが国または地方の文化財として指定・登録され、保存・活用の措置が講じられている。
中村與資平は1880年(明治13年)に静岡県長上郡天王新田、今の浜松市東区天王町の農家に父貞一郎と母せきの長男として生まれた。農家といっても江戸時代からの広大な農地をかかえる大地主であり、当主は代々「與左衛門」を名乗り、農地を管理していた。自伝によれば與資平が地元の下堀学校(今の浜松市立与進小学校の前身)、浜松高等小学校(今の市立元城小学校)、静岡県浜松尋常中学校(今の県立浜松北高等学校)を卒業したあと、父貞一郎は長男である與資平に対して、師範学校へ進み、地元の学校の教師になるよう希望していたが、母親のとりなしで旧制高校への進学を認めたという。後に多くの後進の建築家を育て、大学でも教師としても活躍したり、県教育委員になったりしたことを考えると、與資平の教師・教育者としての資質を父親は早くから見抜いていたともいえる。
與資平は合格の安全を見込んで京都の第三高等学校(現京大)に進むが、在学中に志望学科を電気から建築に変更する。電気を志望したのは当時水力発電が盛んになってきたため、近い将来浜松にも天竜川の水力を使った電力会社ができると考えたからである。実際に浜松に小さな電力会社ができたのは1885年(明治28年)、與資平が15歳の頃だが、本格的な電力会社は1902年(明治35年)創立の浜松電灯株式会社(火力発電)まで待たなければならなかった。同社には後述する同村の銀行家555謙三(1850-1913)も役員に名を連ねていた。同じ年(1902年)に三高を卒業した與資平はちょうど間に合ったわけだが、あえて専攻を建築に変更した理由について中村は建築家は自営ができることをあげているだけで、特に建築家でなければならない理由については何も書いてはいない。自伝からうかがわれる建築への関心は地元の下堀学校が当時としては珍しい「洋風建物」であったことを記しているだけである。
中村與資平は東京帝国大学工学部建築学科に進み3年間学んだあと、1905年(明治38年)、帝大大学院に籍を置きながら、入学当時、建築学科主任教授であった辰野金吾(1854-1919)が官を辞し、後輩の葛西萬司と1903年(明治36年)に開設した民間の建築設計事務所「辰野葛西事務所」に「奉職」する。明治38年卒業の同期生は11人で、その内2人が朝鮮総督府の技師になり、1人が満鉄に就職している。
第一銀行は1902年から朝鮮で頭取の渋沢栄一の肖像をのせた紙幣、第一銀行券を発行するなど中央銀行的な地位にあった有力銀行である。中村が設計を任されたのは、同郷の銀行家555謙三の養子である555純平(1872-1942)が同銀行に勤めていたことが関係している。帝大経済学部をでた555純平は当時、渋沢の懐刀あるいは知恵袋といっても良い存在だったようで、中村が京城支店の設計を任される前年には渋沢に同行して京城の支店予定地を下見に訪れている。さらにその3年前には朝鮮を視察した555純平が朝鮮情勢について渋沢に報告をしていることが渋沢の日記に書かれている。こうして開通して間もない東海道本線を上り下りする555純平から最新の情勢を中村與資平が聞いていたであろうことは想像に難くない。
ちなみに辰野葛西事務所は1906(明治39年)年12月に東京中央停車場(東京駅)の設計を開始しているので、この設計にも中村が一時加わっていた可能性があるという。またこの時期は日露戦争の勝利をうけて、関西から西日本方面の建築需要が増大しており、辰野は大阪に辰野片岡事務所を開設している。
中村は期待に応えて建築家としての将来をかけて設計に励み、1907年(明治40年)の秋、下見を兼ねて韓国に渡り、帰国後設計を完成させ、辰野に認められる。そして翌年、第一銀行臨時建築部工務長として韓国に赴任し、施工監理に当たった。基礎工事の際、中村は下請けによる施工の不備を見つけ、即座に工事をとめさせて改善させるなど、施工監理者としても才能を発揮したようで、その後工事は順調に進み、1909年7月11日の定礎式には朝鮮統監府の初代統監を務めた伊藤博文元首相(当時は枢密院議長)が出席し、定礎の文字を揮毫している。この定礎の文字は現存している。
第一銀行京城支店として建設を始めた石造2階建ての大建築は、銀行の機構改革で昇格し韓国総支店に、さらに1909年第一銀行から切り離されて韓国銀行となり、最終的に日韓併合により1912年(明治45年)1月朝鮮の中央銀行として朝鮮銀行本店となって完成した。これに伴い、第一銀行は京城支店と釜山支店を残して撤収した。
海外で実績を積んだ中村は、次の目標を米欧での建築事情視察の成果を持って日本で活躍することに定める。朝鮮と中国東北部で実績を積んだ中村があえて日本に転進した背景としては、1919年に起こった朝鮮の三一運動、中国の五四運動以降の社会情勢の不安、1919年3月25日に恩師辰野金吾が亡くなったこと、朝鮮銀行の支店建築がひと段落をつけたこと、静岡県内でもコンクリート建築の需要が見込めるようになったこと、郷里の両親の高齢化などが考えられる。さらに米欧旅行の前年の1920年12月に京城の事務所が火災で焼失したことも決断する契機になったと考えられる。また朝鮮銀行本店の建築で苦労を共にした義兄の555純平がすでに帰国して第一銀行本店にもどり、同時に郷里の遠州銀行などの要職を兼任していたことも大きな理由であろう。中村與資平は約1年間の米欧旅行のあと、東京に設計事務所と工務部を設け、折からの関東大震災後の建築需要を取り込み、順調に実績を伸ばした。そして、その後の10数年間に設計、施工した作品は国内では静岡と東京を中心に北海道から九州にまで及び、朝鮮でもいくつかの作品を残している。
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