2007年6月19日火曜日

人生は自分で切り開くか、敷かれたレールを歩むか?


今でも鮮明に思い出すシーンがある。浪人して、19歳にして東京へ上陸して、4月後半くらいの出来事だったかなぁ?同郷出身なんだけど、一年先に入学していた先輩(っが、年齢は一緒)っと、同郷つながりで、話が盛り上がり、ファミレスで大激論をした事がある。テーマは、「人生は、自分で切り開くものか、または、敷かれたレールの上を歩むものか?」。うぅ~ん、哲学的。

僕のAnsewerは、当時も今も変わらず、「敷かれたレールを歩むもの」って考える。先輩は、「そんなのつまらない、自分で切り開きたい」っと豪語していた。どちらも、正しいけど、これって、ある意味、Who I am を象徴しているテーマなので、取り上げる。

僕って、無宗教だけど、一応、かじった事のある宗教や教えから、「これは、格好良い。ジーンとくるなぁ~」ってな語録、考えをリスト化してそれを信仰している。ある意味、555教の教祖を務めつつ、信者は、僕だけって感じ。自分的には、格好良い!って思うけど、なんでも、Acceptedなんで、自分がないのかも・・・って不安にもなる原因かも知れない。グラミー賞とかで、Winnerが、壇上で、神、両親、仲間たちに感謝する姿は美しいと思うし、高校野球で負けて泣く球児を見て、その光景を、自分の中で宗教化さえしている。

なにか、人生を自分の手で切り開く。ってのは、凄く格好良いと思うんだけど、なにか、僕には、傲慢で、自己中心的で、無謙虚に見えて仕方がない。っが、しかし、僕の事を知る人は、特に、僕の両親なんかは、僕の事を、「地球は、555の為に、回っているって思ってやがる。奴は、感謝の心と謙虚さがない!」って思うだろうけど、実際は、その逆なんだよね。人生には、自分ではどうにもならない事ばかりで、健康とか、家族とか、出世とか、、、、、頑張れる範囲で、どうにか、手に入れることは出来るけど、最終的には、逆らえない何かがあって、自分は、敷かれているレールを必死に前進しているに過ぎない。って思えるんだよね。だから、今は、知らないけど、僕の寿命も、既に、決まってんだよね。
ただ、敷かれたレールは、その時、その時に、分岐点が存在し、目標地(東京、北海道?)を決めた後は、右に行ったり、左を選んだり、快速で飛ばすか、各駅で行くかは、自分で決めなきゃ、切り開かなくては成らないんだけど、それでも、結局は、すでにレールは敷かれてると考えるんだよね。

なんでかねぇ?自分を分析してみるに、結構、高校野球の影響が、大きいかもしれない。みんな勝ちたくて、甲子園に行きたくて、毎日、つらい練習を重ねるけど、彼らは、すべてを受け入れる用意がなくては駄目。チーム競技だし、自分が、自分がって張り切っても、自分がエースでノーヒットノーランやっても、負けるときは負けるし、チームメイトのエラーや、審判のジャッジ、運悪いイレギュラーバウンドとかを責めても始まらない。結果よりも、プロセスを凄く重視する傾向にある。充実したプロセスは、勝利とかの結果よりも、得るものが大きいと信じる。満足したプロセスを歩めば、後の結果は、神のみぞ知る世界だと決めつけ、神のジャッジを受ける。その結果が、不合格、失敗、×でも、そこで得たもの(限界への挑戦、努力、友情、献身)は、結果よりも価値あると思いたい。だから、運命は既に決まっているっと信じる所以です。しかし、現実、MBAの世界、ビジネスの世界では、結果主義だから、自分の中では、凄く、虚しいものを感じたりするのも事実。

「自分の人生は、自分で切り開く」派を分析するに、結果主義者な傾向にあるのではないか?っと、思う。彼らは、彼らで、切り開く為に、チャレンジ精神もって、努力するだろうし、結果に拘り、その結果に辿りつく為に、相当の努力をしているから、それはそれで、格好良い。

どちらが正しいのかってのは、分からないし、まぁ、両方、正しいんだけど、人それぞれ、考え方が、違うってのは面白いねぇ。結果主義者は、結果を達成した時に、大きなHappyを手に入れるだろうし、過程主義者は、結果はどうであれ、その過程に少しずつ、小さなHappyをたくさん手に入れるだろうし、人それぞれ、Happy観も違うのかもね。

さて、今の目標は、まず、MBA卒業して、そしたら、会社に復帰して、新しい仕事を与えられるけど、特に希望もないから、コツコツ努力なんかしちゃうけど、ある時、海外赴任辞令がでたら、「敷かれたレール主義者」としては、どうしようかなぁ?まっすぐ行こうか、右路線を選ぼうか、Uターンして待機するか、今は、まだ、分からないけど、きっと来るそんな時に備えて、今のプロセスを楽しむかな!日々前進!