2007年9月9日日曜日

友達のHPを紹介して終了します


どうも、こんにちは。
僕は、こんなブログ更新は時間の無駄だと思いますので辞めますが、私の友人で、今から始めようとしている奴がいます。結構、昔からの友人なので、彼のホームページを紹介して、このブログを終了したいと思います。友人のホームページは、名称=Mt. Bambooらしいです。センスの無さだけを感じますが、まぁ、見てあげてください。 センスないですが、憎めない奴なんです。

My Friend's Home Page = Mt.Bambooo ←ここをクリック


Are you happy? Yes, sure? I am sure!!!
では、また、いつの日か、お目にかかれますように!See you!









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2007年9月6日木曜日

最後の最後になりますぅ


3ヶ月弱になりますが、いままで、僕個人に関してのみ述べてきたブログを読んでくださいました読者の皆様、どうもありがとうございました。本日、9月6日(木)台風9号が静岡県+首都圏を直撃しようとしている夜に、最後の更新を致します。今まで、ひたすら長く、だらだらと555-Happiness感をテーマに綴ってきましたが、読者からのクレームとして、

「読みきると疲労感残る」
「数日、忙しくて読めないと、挽回できなくて困る」
「長ぇ~よぉ~」
「よくもこんな長くダラダラ書けるね」
「会社復帰しても続けてね」
「考えてないようで、考えてるね」
「結構、ブログから刺激もらってる」


っと、すべて好意的に解釈しております。いよいよHappinessにこだわったブログを本日、Closeする訳ですが、最後に、555-Happiness Valuesを下記にまとめます。

1) 仕事楽しい?って聞かれたら、Yesっと即答

2) 家族に愛されてる?って聞かれたら、 めちゃくちゃ愛してる!っと即答

3) やっぱり仕事人間だねぇ?って言われたら、 I am 仕事人間 as well as 愛情人間っと即答する。

4) それでもMBAホルダー?って言われたら、 これでもMBAホルダーです!What are you? って聞いてやる
5) 人間関係に病んでない?って聞かれても、そんなの関係ねぇ~!って跳ね除ける

6) 天狗になってない?って突っ込まれたら、頭(コウベ)を垂らす

7) 最近、ギャグセンスないねぇ~って言われたら、ネタ帳を見直す

8) 野心家だねぇ~って言われたら、人生は、夢の大きさで決まる!と即答

9) っで夢は?って聞かれたら、ヒ・ミ・ツってアイドル気取りする

10) 他人に感謝する態度が見られない!って言われたら、 素直に、ごめんなさい

これを今後の555-Happiness-10ヵ条として心に抱き、更なるHappinessを追求していく旅をスタートさせたいと思います。
See you again & Thank you very much 今まで & 今後もガンガン行くよ!



PS:
このブログの初日に、左側サイドコラムにイチローvs野茂の一枚の写真を掲載しました。理由は不明でしたが、個人的に一番好きな写真だったので掲載しました。その時の約束事として、野茂が投げた2球目をイチローはバットを出しに行くわけですが、その結果ってのを公表することでした。結果は、セカンドゴロでアウトでした。写真は、言葉に出せない思いを表現にできる良い手段だと思います。イチローがセカンドゴロってな結果は重要ではありません。なぜ、僕が、この写真に思いを込めたか?って事を振り返ります。

1)イチローがメジャーに飛び出したその勇気が格好良い
2)野茂の無口なヒタムキな姿勢が格好いい
3)2人の武士が直面し、考える時間もなく、瞬時に体で反応しなくてはならない状況がカッコウ良い
4)思いっきり投げ、思いっきり振りに行く。結果は、どうでもいい事が格好良い
5)2人が、この場面に漕ぎ着けるまでのプロセスが格好良い
6)2人ともプロだが、結果以上にプロセスに拘る処が格好良い
7)・・・・いろいろ・・・


3ヶ月前は、良い言葉で表現できなかったけど、今になってみると、この写真は、自分が美しいと感じる瞬間=夢の舞台で、最大のライバルに対し、経験を基に、瞬間的に挑む。その時のために、如何に素晴らしいプロセスを歩み、それを自信に挑むか?って事を自分へ訴え続けた一枚の写真だったのかなぁ?って思えます。いつの日か、部下かもしれないし、社長かも知れないけど、突然、判断を迫られ、瞬時に、自分の回答(ビジョン)を表現する。セカンドゴロでアウト?そんな結果は関係ない。その後、イチローが残したように、確実なプロセスが結果を保証する。その日の為に、あたらしい生活を歩みます。

2007年9月1日土曜日

いよいよブログ閉める時が来ました・・・

このブログをどのように終えようか、今、考案中。自分にとって、この一年を無駄にしたくなかったし、必死にモガいた一年だったし、自分のMission(使命)、Value(価値)、Vision(目指すもの)ってのも問うた一年だったし、それをKey-Word=Happinessを軸として記録に残すことで不滅なものとしたかったし、10年後、20年後に過去を振り返った時に、自分自身に最大限のエールを贈るものとしたかったし、そんな動機でブログを開始した。

3ヶ月弱のブログ連載であったが、自分でも驚くほど、毎日良く更新したなぁ~って褒めてあげたいと思っています。昨日の時点で、文字数にして300,000字に達しましたし、原稿用紙にして700枚強になります。当初は、このブログを本にして30部ぐらい印刷して、両親はじめ、親しい友人なんかに、高額で売りつけようとも考えました。実際に、先日、自費出版会社数社にネット見積依頼をしたところ、最安値の出版社でも90万円ほど費用が発生することが判明しました。(見積条件=限定30部、カラー、700ページ、ハードカバー、イメージ=落合信彦っぽい奴、書店流通なし、委託販売なし)ふぁぁ~、一冊辺り3万円也。これを買ってくれと読者に頼むのは詐欺だ。宗教本でない限り、絶対に売れない。だから、限定30部だから高額なのかと思い、100部に増冊して再依頼したところ、見積回答は100万円。追加70冊分の紙代&印刷工程代のいわゆる製造原価分だけが追加になるだけだったけど、一冊1万円まで僕にとっての仕入原価は低減できるが、マーケティング的に、どう足掻いても、100冊は無理っすよね。だから、「555-Happiness Diary」の出版を心待ちにしていたファンにとっては、大変、申し訳なく思いますが、この出版PJは、辞めました。そう、辞めましょうよ。

さて、結論として、このブログは、9月2日(日)次回号を最後に絞めます。祝卒業できましたので、The Endが許されるかと自分を慰めています。次号にて、いよいよ、555-Ture Happiness(真の幸福)を公開することに・・・・


PS1:
公明党の支持団体である創価学会は、たくさんの関連本を出版しております。読んだことはありませんが、彼らも、非常に、人生とは?幸せとは?っと訴えかけています。その出版物の中に、「Are you Happy?」ってな30代女性をターゲットとした雑誌がありますが、我がブログは、創価学会とは一切関係ございませんので、ご理解&ご承知ください。

PS2:
大川隆法氏が率いる幸福の科学って団体も、人間のHappinessを追及しています。彼らは、私なんかに比べたら視野が広く、自分だけのHappinessだけでなく、みんなも幸せにしてあげたいらしく、積極的に活動されています。それに比べたら、自分は、自己中だなぁ~って思います。我がブログでは、誤解を防ぐ為に、日本語での"幸福"をさけ、敢えて、Happinessと使い続けました。当然、英和辞典内では同じ意味を指しますが、「幸福の科学」とは、一切関係ございませんので、ご理解&ご承知おきください。

2007年8月31日金曜日

東京最後の夜に見た幻想

21:40発、東京発最終こだま(浜松駅止まり)の中にて当ブログ執筆中。今日の一日は、とても長く、自分の人生においても忘れる事のできない日でありました。今日一日のすべてのシーンが今、回顧されます。要するに、今日は、学位授与式(卒業式)があり、寮のキーを返還し、その庭で仲間連中とBeerパーティーをして、この新幹線に至る訳です。すべてのシーンが、最後となる訳です。

このフィーリングは、人生で2回目になります。1度目は10年前の大学卒業時に、やはり東京駅を離れるその瞬間に、寂しさが襲ってきて、まぁ、BGMは、「いま、春が来て~♪」なんて曲がながれ、都落ちのフィーリングもありました。涙こそなかったですが、ジーンと着たMomentだった訳です。23歳の春だったですね。あれから10年経過して、今日、2回目のその都落ちってな雰囲気を、また痛感しなきゃならないのは酷ですね。しかし、今回は、1回目と比べ物にならないほど、重いです。Too heavyです。

今日一日は、自分にとって偉大であり、いつもの通学路を利用する事も今後はないですし、あの勉強したキャンパスを訪問する事も、今後、maybeないですし、寮をチェックアウトする際に、なかなか玄関で電気が消せない。部屋には何もなく空っぽなんだけど、電気が消せない。1回、部屋の中に戻って、全体を見渡し、「一年前に、初めて、寮の部屋に入った瞬間は、こんな感じだったんだぁ~」って、不安に怯えていた自分を解雇し酔った。寮庭でBeerPartyする仲間全員と握手&ハグをして、見送られるように寮を後にした。すべてのシーンが心を打った。

そんなジーンとくる事には、予感があった。この一週間は、正直、体力的にも、精神的にも少し疲れた感があった。この一年、一度も体調を壊さなかった僕としては、最後の最後に襲ってきた疲労感だった。疲れが取れない。頭が痛い。引越の荷造り、江東区役所へ転居手続き、会社へのMBA報告会資料作成&その作り直し、外大時代の連中と同窓会的小パーティーしたりと、正直、しんどい毎日を過ごしたんだけど、8月30日(木)夜は、その疲労が一気に自分に襲い掛かってきて怖かった。奥さんに、「これは、夏ばて?栄養失調?完全な寝不足?エアコンがんがんによる風邪?なにを食べて寝たらいい?理由はなにかな?」って聞いたら、「すぐ寝ろ!」って言われたので、パワーつけるためにカップラーメン購入して、栄養剤飲んで、ベットに横になった。最近は、涼しくなってきたとはいえ、普通、一旦寝たら起きない僕も、寝苦しくて途中で目が覚めちゃった。だから、床に寝ることにした。床は少し冷たくて、心地よくて、やっぱり、僕は、床上で寝るのが好きなんだなぁ~って過去を思い出し、気持ちよくなってグッスリ寝れた。MBAスクールが始まったばかりの頃は、授業に付いていけず、睡眠3時間くらいで一日を廻していた。その3時間を睡眠に費やすこと事体、もったいないと感じたし、また、一度寝たら目が覚めないのでは?って恐怖に怯えていた。だから、3時間くらいで目が覚めそうな床で寝ることを思いつき、そこで寝ていた。当時は、マフラーして床上に寝てたし、寒かったなぁ~って懐かしい。

今日、僕は、幻想を見た。少し怖かった。それは、寮庭で賑わう仲間達に別れを告げ、最終新幹線に間に合わせる為に東京駅へ向かう”ゆりかもめ“の中で見た。少し酔っていたからボーッとしてたんだけど、誰も座っていないはずの前の席で、下を向いて、必死に本を読んでいる青年を見た。本当に、外の風景、電車内の他人の会話なんか無視するように、夢中に、いや、死に物狂いでペーパーを読んでいる青年だった。話しかけたかったけど、こっちも怖いから、ボーッと眺めていた。ふと我に帰ると、そこには、誰も座っていなく、あぁ、幻想か?って気付く。自分の一年前の姿(睡眠不足、時間があったら予習)を幻想したことに気付く。その青年を凄く愛らしく感じた。めちゃくちゃく可愛く、なんか、自分の子供のように感じた。

思うんだよね・・・・。東京で一旗挙げてやろう!とは思わないが、それでも東京を後にすることは寂しいもので、ましてや、今回は、幻想をも見てしまう超異常現象な訳で・・・。でも、そうやって人間てのは成長していくのだろうなぁ~ってツクヅク感じる。今回、人生初の幻想を見たことは、この一年が自分にとって偉大であったことの証明だろうし、更に、たった一年しか経っていないのに、一年前の自分の姿を幻想として見て、「愛らしい」っと思えた自分自身を、今は、誇りに思います。Happy Graduation & Future !!!

2007年8月30日木曜日

週刊新潮に就職できるかな?


君は、週刊新潮(9月6日号)を買ったか?絶対、買わないし、読まないし、手にも取らない週刊誌だけど、今回ばかりは、購入した。今日午後、奥さんと電話した際に、彼女から、新聞中刷りに、安部内閣におけるサプライズに関し、「なぜ、片岡さつきは消えたか?」って取り上げてるよ!ってな情報入手。早速、ゆりかもめ新橋駅キオスクにて人生初の新潮購入。
まずは、新潮が今回取り上げた「阿部内閣オフレコ裏話」を語る前に、週刊新潮とは?っと調べてみた。まず、絶対的にターゲット読者は、40歳以上だろうね。若者は読まないよ。っが、しかし、2007年現在では、発行部数で、週間ポスト、週刊現代を抜き、第2位の位置付け。トップは、週刊文春。業界的に発行部数が減少する中で、以前と変わらぬ発行部数をキープし、2位に躍進したそうだ。要するに、週間ポスト&週刊現代の編集長は、責任問題により、相当、上司から絞められてるだろうね。かれら編集部は気づいていると思うけど、最近は、グラビア写真とか多すぎだし、確かに、質が下がってるって読者に見切られたんだろうね。その点、週刊新潮は、グラビア写真なんてないし、ましてや、野郎どもが燃える購入後、ハサミで切る綴じ込みページなんてものはない。週間新潮は、論じようと試みる点は、素晴らしい。
っが、しかし、週刊新潮もどうかと思うよ。結構、皮肉るコメントが多いわけよ。世界陸上で熱唱する織田祐二とかを"迷惑だと思われても、メインキャスターは、最後まで歌いきった!"とかね。世界陸上を観覧する伊吹文部大臣のあくびをショットして、"数分後の両陛下が世界陸上にいらっしゃった時には眠い素振りすら見せなかった"とかね。なんか、皮肉ってない?これが、40歳以上を対象にしたウケなのか?まだ、まだ、僕は、子供だ。(年齢と言えば、今、僕、33歳なんだけど、人事へのMBA報告資料に"現在34歳、20年後の54歳の時には・・・"なんて、年齢詐欺しちゃったよ。有り得ない逆サバ読み。10日程前にも、奥さんに対し、"How old are you? 僕の2歳年下だっけ、3歳年下だっけ?"って聞いて、顔色変わってた。それそれそれそれ、年齢なんて関係ねぇ!!!本家ごらんになりたい方は、次のYouTubeをリンクください。Mr.小島よしお尊師
さて、本題の、「なぜ、片岡さつきが、新内閣から漏れたか?」の週刊新潮の結論は、彼女のサプライズは、舛添厚労相で消えた!ってなストリーでした。新潮によると(下記は、記事コピー)
第三次小泉内閣発足の際に、初当選したばかりの猪口邦子が、いきなり少子化・男女共同参画担当大臣に任命された例がある。だから、猪口氏と同期の当選1回組と言えば、女性初の財務省主計官という輝かしいキャリアを誇り、いきなり経済産業大臣政務官に抜擢された片山女史が、閣僚候補に挙がったとしても不思議ではなかった。片山女史自身にも意欲はあったようで、地元後援者で、本人から、「今度、入閣するから」っと聞かされた人もいる。しかし、閣僚候補として舛添氏が検討された段階で片山女史の名前は消えた。「だって、別れた夫婦を一緒に閣僚にするのは、まずいでしょう」っと、官邸関係者は話す。・・・・・・
そんな感じの内容なんだけど、まぁ、片山ちゃんも自民党広報局長として、参院選惨敗の責任あるとは言え、別れた夫婦を同じ内閣で人事するのは、世間的にマズイでしょう!っと結論付ける新潮殿、あなた、あなた、相当、面白いけど、ブッブー。それで、コメントを終えているあたりがブッブー。そこは、まさに、議論のスタート地点であって、それを覚悟して片山女史を組閣しない安部改造内閣を裁け!別れた元旦那、別れた元家内、そんな奴と一緒に仕事できるとしたら、それこそ、厚生労働大臣(舛添)&少子化問題特命大臣(片山)のコンビとして、閣僚会議は大盛り上がり。サプライズどころの話じゃないよね。より具体的、庶民に近い内閣として評価されたであろう!っと終わって欲しかった。現在の日本の離婚率は、2人/1000人の比率。アメリカ、ロシアと比較したら、いくら日本の離婚率が上昇傾向にあるといっても子供扱いだが、そんなこと全然、関係ないと思うのですが・・・。世間体とか言うかもしれないけど、もう、フリーで良いのでは?現実的に、情報が多いこの時代。国籍なんか関係ないし、ゲイだって人権認められる国がある中で、なんで、離婚した過去がタブーなの?小島よしお尊師、もう1回、違うネタで登場してください。では、小島先生、2作目YouTubeをどうぞ!
そうそう、僕は、大学時代に、キャンパス内で、他人の恋ネタには、超アンテナ高く、確実な本人への聞き込み調査に基づき、"外大の梨本さん"を自称していた。恐縮ですぅ!当然、社内恋愛肯定派ですし、大学で言えば、同学科恋愛は、推奨してましたし、率先して実践してましたし・・・。当時は、就職先に、東京スポーツも考えていたけど、東スポは超レベル高かったし、第一、高校野球を特集しない。メディアの世界を諦めた瞬間だったんだけど、でも、でも、でも、確実な聞き込み調査は、今回も片山さつき女史にダイレクトに実施しており、週刊新潮よりも2日早く、555ブログの中で世界にリリースしているあたりを週刊新潮にアピールし、どうにか、就職内定もらえるのではないでしょうか?週刊新潮の編集長が、僕のブログを見て、返信くれたら、超Happyです。
PS:
9月6日号の週刊新潮には、櫻井よしこ氏による「内閣改造、私は、こう見た!」っという記事が4ページにわたり取り上げられていた。僕は、櫻井よしこ氏を尊敬しており、さすが、彼女の視点は、群を抜いているし、コメント自体も強く、文面には書ききれない彼女自身の教養/膨大な情報裏付けを感じる。さすが、櫻井よしこは、キレルよ。刺客だね。僕は、週刊新潮なんて就職しようなどと考えず、フリーでいくかなぁ。櫻井よしこ氏の様に・・・
彼女は、ブログも公表しており、私の555ブログとは、格の違いアリアリ。尊敬できるわ。彼女のブログのリンク先は、ここをクリック! また、彼女は新書として7月13日に、「日本よ、強き国となれ」書籍をリリースしている。当然、購入済みなんだけど、今は、引越トラックのダンボールの中で、今頃、東名は知ってる頃だと思う。読まないといかん。興味ある方は、ここをクリック!

2007年8月28日火曜日

朝潮太郎は大好きですが・・・協会が・・・


僕、朝潮(高砂親方)大好きなんだよね。もう憎めないって言うか、ガチャピンみたいだし、カワイイって存在だよね。でも、今、彼は、正念場なんだけど。

昨日は、徹夜で寮部屋の引越荷造り&大掃除をしていたので朝方まで汗ビッショリ。結構、肉体労働は、いいエクササイズよね。それにしても、ハーバードケースやら書籍やらでダンボールが本だけで6箱くらいになってた。こんなに読んだかなぁ~って思い起こしながら、結構、忘れてるなぁ~って懐かしみながら、冷静になってみると、タイトルだけは見覚えがあるが、内容は既に覚えてないから、もう、駄目だな。
そんな事で、今日は、14:00にお目覚めしたけど、やる事ナッシングですし、「そうだ!お昼のワイドショー見たら暇つぶせて、安部さんとかのこと報道してるかも・・・」ってラウンジに行ってスイッチ入れると、ほぼ、朝青龍ネタで持ちきり。高砂親方、額に汗ビッショリで会見してました。いよいよ相撲理事会として朝青龍のモンゴル帰国を容認し、高砂親方も同行するらしく、今後の全責任は、高砂親方が採られるらしいです。ちゃんちゃら茶番劇過ぎて、既に、国民は朝青龍ネタに飽きているから、是非とも、下記の特番を組んで、メディアとして、相撲協会を糾弾して欲しい。
民放各社は、もっと、もっと、アングル変えるべき!
①朝青龍明徳の恩師インタビュー
朝青龍は、高知明徳高校相撲部にて基礎を築いた。朝潮も高知室戸出身で同郷繋がりで、当時の若松部屋へ入門。当時の朝青龍は無名であったから、朝潮の自由奔放な指導方針は、ある意味、正解だったといえるかも。そこで、このタイミングで、是非とも明徳高校相撲部の監督にインタビューして欲しい。高校生であった朝青龍の当時の様子を回顧して欲しい。「本当は、気の弱い子なんです。。。」 世間の注目を明徳高校にも少しは分けてあげた方が宜しいのでは?明徳が全国的に注目を浴びるのは、星陵松井を5敬遠した時以来かな。
②朝潮同行。当然、メディアも同行。その前に・・・
高砂親方は、モンゴルに同行するらしいですよ。本当に、親方って仕事も大変だね。長期化したら、今度は、高砂親方がホームシックに懸かっちゃうよね。高砂親方は、朝青龍の帰国後の責任は、全部負う!っと断言してました。凄いこと、言っちゃいました。でも、その前に、朝青龍が巡業をサボって、モンゴルでサッカーするにあたり、「相撲協会へ腰痛全治2ヶ月診断書を発行した医師は、今!」ってなタイトルで、確実に、医師免許剥奪されているか確認ドキュメントを作成して欲しい。医師免許は、一回取得すると、なかなか剥奪されることはなく、本当にそれでいいのか?メディアは問う。ここで、舛枡要一大臣、吼える!ってシナリオ。メディアは、周辺に面白いネタ一杯あるのに、同じことばかり報道してては駄目だよ。。。
③なぜ相撲協会は鬼になれないのか?と糾弾する
これが、本題。夕刊フジなんかは、K-1谷川Pが既に接触してるだのゴシップ流してますが、なぜ相撲協会は朝青龍をクビにできないのか、その本当の理由を問うて欲しい。所謂、トヨタウェイー方法です(なぜを5回問う)。正直、朝青龍は、既に、不要な力士であるにも拘らず、なぜ、あそこまで可愛がるのか?理由は、鉄砲だと思うわけです。あまり、朝青龍に鬼になりすぎると、暴露本ってのが怖いのです。世間は、朝青龍がテレビに出て謝罪しないことに注目してるけど、実は、この裏の駆け引き最中なので、メディアに出てこれない訳です。そこを何故、突かない!
④国技からの除外運動。だれが国技と決めたの?
相撲の歴史は、1300年前にさかのぼるらしく、古事記とかにも記載されてるらしいね。板垣退助時代の1909年に、両国国技館完成した際に、命名するに当たり、国技館って付けた事から、相撲=国技になったらしいね。でも、一説には、厳密に言えば、文部科学省が相撲を国技と認めていない為、国技ではないとも言われるって話も。そこで、どこかの民放記者は、全国放送インタビューのLiveで、次の様に北の海理事長(高砂広報部長には酷な質問だから)に問うて欲しい。 「他の現役力士が、正々堂々と八百長なしに頑固勝負している一方(嫌らしいねぇ)、先の不倫テープ露呈事件、今回の朝青龍対処は、国技として、国技として世界に情報を発信するに当たり、余りにもお粗末であり、相撲を国技から外すべきではないでしょうか?ある意味、日本国民も迷惑被ってます。」


最後に、いい機会ですので、僕達は、下記の事実を忘れてはなりません。鉄砲(八百長)に関する事実です。1980年頃より、週間ポストが元十両の八百長告発手記を初めて公開。その後も元力士や元角界関係者による告発シリーズを約20年にわたり掲載した。週間ポストは、えらく頑張ってる。1996年には、大鳴戸親方とその後援会にまつわる告発手記をディスクロジャー。八百長問題、年寄株問題、、うひょ~暴力団との関り、毎度の乱れた女性関係等を暴露。日本相撲協会は、当然の様に、毎度の様に、告訴した。更に追い討ちを掛けたのは、大鳴戸親方が、『八百長―相撲協会一刀両断』てな本まで出版し、ガブリ四つの攻防。が、しかし、この著書の発売直前に、告発者の大鳴戸親方と後援会副会長の2名は、同日・同じ病院・同じ病気を理由で急死した。1996年の出来事ですよ!毒盛り?9年前の出来事ですよ!事件性も疑われたが、結局は病死ということで処理された。これって、ダイアナ妃の交通事故よりも、また、1973年に韓国金大中が、東京ホテルより拉致されて、5日後に韓国の自宅前で発見された事件以上に、闇である。忘れてはなりません。


PS:
朝潮の記憶に残っている名勝負(勝手に555認定)としては、1983年1月場所の千秋楽の大一番。"大ちゃん"ニックネームで人気上昇中の当時、関脇・朝潮が14勝1敗で、大関昇格を掛けて挑んだ優勝決定戦。相手は、"ペコちゃん"ニックネームで大関・琴風。僕は、ただ、「行けぇ~!そこだぁ!」ってな祖母の声がやたらに大きかったことの方が鮮明だが、朝潮が立会いの間合いでタイミングが合わない。2度も"待った"をする訳よ。もう、当然、額には汗ビッショリ。結果、優勝を逃しました。思うに、どう考えても、朝潮太郎は、いい人っぽいよね。両者は、高砂親方(朝潮)、尾車親方(琴風)として後輩の指導に、汗ビッショリです。

2007年8月27日月曜日

「友達学級の席替人事」を片山さつきに問う


8月27日(月)は、自宅にて大掃除。そろそろ東京から引き上げる為、寮の本棚にビッシリと詰まった本&ファイルのスペースを確保する為、セクセク、大掃除をした。悲しい事に、家族の誰も手伝ってくれず、まぁ、こんなもんですがねぇ。

夕方から各テレビ局は、安部改造内閣の新人事について組閣メンバーの発表をし始めてましたね。世間のサラリーパーソンは、仕事中なので申し訳ないですが、僕は、宙ぶらりんな身分なものですからテレビ朝日の田原総一郎さんのコメントを横耳で聞きながらの大掃除でした。サプライズは、枡添要一の厚生労働大臣就任くらいですかね。彼は、阿部内閣、参議院選挙戦略、年金問題政策と大きな声で批判していたから、その手腕に注目です。決して、けなしている訳ではなく、僕達のよく知る舛添氏みたいな国会議員が、どこまでできるかって興味深いよね。無所属だし、自民党のシガラミにも無関係だし、国民を味方に付け、唯一、改革できる人であろうから注目に値します。以前、このブログで、内閣の平均年齢を10~20歳は若返らせるべき!っと555見解を詠ったんだけど、現実には、逆に、加齢したのは笑えるね。サプライズとしては、片山さつきなんかを登用すべきだったと思います。

晩御飯を家族で食べながら、テレビの組閣ニュースを横目に、奥さんに、「なんで片山さつきとか登用しないのかなぁ?」って呟いたところ、彼女曰く、「まだ、当選一回目じゃぁ~難しいんじゃないの~」って言ってたのを聞き流し、それこそが、サプライズであって、国民が期待するわけで・・・・・。そんなカンダで、晩御飯後は、東京に戻らないと行けない為、引越し準備ありますし、寮引き上げの立会いありますし、卒業式もありますので、早めの晩御飯後に、家族とバイバイし、浜松駅に向かいました。家族とのバイバイは毎回、悲しいものですが、家族の誰一人として涙はなく、子供達は元気良すぎる程、左右に手を振るバイバイでした。

新幹線ひかり待ちしている最中に、僕は、スターバックスへコーヒーを買いに行きました。そこは、新幹線上下線の待合ルームにもなっていますが、なんと、偶然にも片山さつきを発見しました。待合室の席に座って新聞(中日新聞)を読んでました。ミストー購入後、ズカズカと僕は、片山さんに近づき、単刀直入に、インタビューしました。

555:
こんにちは、片山さん。今回の組閣で、なんで、片山さんは入閣しなかったんですか?

片山:
いえいえ、私なんか、まだまだですよ。でも、自民党として来年のサミットまでは、この内閣で行かなきゃならないから、自民党もそうですが、私も頑張らないといけないです。

555:
いえいえ、国民は、あなたのような人を待っているのです。今回の組閣は、サプライズ乏しくないですか?

片山:
今の自民党は、そんなサプライズできる状態でないのも正直なところ。

555:
自民党内は、参議院敗戦でそんな感じかもしれないですが、そんな時こそ、自民党内よりも、国民を味方に付けて欲しかったんですが・・・。片山さんこそが、サプライズだったし、そしたら、国民は熱狂して支持するんだと思いますよ。

片山:
応援ありがとうございます。あなたは、どちらの選挙区にお住まいですか?

555:
浜松市の中途半端な田舎町に生まれ、今は、さらに、中途半端な隣町に住んでいます。

片山:
それでは、静岡8区(塩谷立・自民党)ですね。私は7区ですが、どちらも重要な選挙区です。今後、私も自民党も頑張りますので、よろしく御願致します。

ってな簡単なインタビューを終え、最後に、片山さつきさんより名刺を頂いた。本来の僕のスタンスとしては、かなりのミーハーなので、握手、握手御願いします!って流れだけど、今回は、敢えて、そうしなかった。理由は、以前のブログ記載の通り、ぜんぜん、サプライズない組閣だったし、第一、片山さつき氏へのインタビューそのものが、次のようになるべきであったっと考える。

555:
こんにちは、片山さん。今回の組閣で、なんで、片山さんは入閣しなかったんですか?

片山:
そうよねぇ~。私も自由民主党広報局長として、安部さんには、防衛庁長官、または、得意の財務大臣にして!って立候補したのよ。でも、駄目だった。だから、次には、絶対、大臣になれるように頑張ります。

ってな流れだったら、握手ってシナリオだよね。政治家なんだから、野心ムキダシにしてよぉ~。控えめで、謙虚な政治家が好まれるかもしれないけど、あなたは、8.5万票取得(静岡7区)して、小選挙区激戦の末、突破した訳だから、それだけの覚悟はしてくださいよね!

今日の片山さんは、黒いスーツをビシッと決め、左胸には、国会議員の紋章。この紋章、60cmの至近距離から見つめたけど、デカイし、厚いし、貫禄あるよね。彼女の名刺には、自由民主党広報局長、国際経済戦略特命副委員長兼委員長補佐、経済活性化税制議員連盟幹事、って書いてありました。とても、綺麗な女性でした。握手しとくべきだったかなぁ?東大文一卒業(法学士)、大蔵省在籍時に枡添要一と一回目の結婚。現旦那さんの片山氏は、ハーバードMBA卒で、共に再建に取り組むNOVA&グッドウィルの社外取締役。この夫婦、とても、格好いい。

さて、MBAでさんざんリーダーシップとは?っと学んできました。言うは簡単です。でも、当事者意識を持って、自分ならばどうするか?っと問うことで、リーダーシップは磨かれていくのだと信じます。いよいよ、安部さんの21:00からの首相官邸での第一声が楽しみです。今、このブログを新幹線の中で執筆しているけど、21:00には、お台場の寮には到着できますので、楽しみにします。彼は、なんて言うのかな?僕だったら、

「やっぱし駄目?そんな意見あるかと思いますが、自信を持って、派閥トップと会談したのではなく、私が決めました。だから、駄目ならば、私の責任でしょう。しかし、やれる自身はあります。政治家は、政策実行力で問われるべきです。今まで、事務所経費処理問題や大臣発言で国民の皆様には、政治不信を招いてしまいましたが、次回、衆議院選挙までのこの内閣の政策実行力を見て頂きたい。そこで、この内閣の実行力を国民に問います。駄目なら、辞めますぅ~。でも、やりますよぉ~!さぁ、美しい国、日本!大きな声で、ニッポン、チャチャチャ♪、ニッポン、チャチャチャ♪、さぁ、みんなも御一緒に、ニッポン、チャチャチャ♪」

全然、駄目だけど、このくらいしか言えないじゃないかな?日産自動車のカルロスゴーンが社長就任時には、「3ヵ年計画が未達の場合、私を始め、執行部は責任をとって辞めます!」っと言ったそうです。本来、安部さんは、参議院選挙時点で決断すべきでしたが、まぁ、参議院選挙は、政策選挙ではなかったので、そこで辞職するのも可哀相。政策議論して、その実行力を国民に問うて辞めて欲しい。

いよいよ、民主党が、衆議院第一党になる日が近い予感だね。頑張れ、小沢も!

2007年8月26日日曜日

恩師からの電話をどう解釈するか?


さて、世間は夏休み終了し、オフィス復帰している今日この頃でしょうが、僕は、夏休み真っ只中なんだけど、先日もらった恩師TTT部長からの一本の電話が気になる。8月23日(木)に、555携帯にかかってきた一本の電話。MBAスクール終了後に会社復帰するにあたり、復帰職場の話だった。

この日は、丁度、ディズニーシーと富士急訪問の中間に位置する、所謂、旅行日程の谷間に当たる日で、朝から、息子達とお台場の寮に行ったり、アクアシティー観光して、そして、神保町にあるMBAスクールに4学期成績を取りに行って、中央道で河口湖ICへ向かうスケジュールの日だった。参考までに、4学期の成績の中で、特に頑張った"Change Management" のグレードも返却され、Final Examのレポートは、"A"だったんだけど、授業発表でビクビクしてたから、総合評価は、"B"だった。まぁ、"B"でもバンバン万歳ですがね。。。

その日、寮で、Eメールをチャックすると、「大至急、会社へ電話するように!」っとメールが入っており、息子達が、「パパとは、東京で生活したくない!ママと一緒にいたい!」って豪語(号泣)している中、「そうじゃなくて、みんなで一緒に生活しようねぇ!」って片手で彼らを慰めながら、大至急、電話したのですが、あいにく、TTT部長は不在。その後、東京の街を家族でドライブしながら、かみさんとは、すべての事態を想定すべく、緊急家族会議を始めた。

シナリオ1=インド駐在
シナリオ2=フィリピン新工場赴任

もう、頭の中は、海外駐在しか描いていなかったし、別に、9月3日(月)に会社復帰してからでも、人事発表はOKなのに、敢えて、「大至急、電話!」ってのが、どうも気になる。これは、海外駐在を覚悟しておけ!って前置きではないか?っと奥さんと大激論。最大のサポーターの奥さんは、「それは、大変ねぇ~。また、単身赴任だねぇ~」って同行する気配ナッシング。まぁ、個人的には、それは、それで、有り得るかな?

丁度、皇居と東京駅の間(日比谷通り北上)をドライブ中に、携帯に電話が掛かって来た。TTT部長からだ!車を脇へ泊めたかったけど、流れ上、難しく、そのまま運転しながらの電話だった。内容は、9月復帰したら、配属部署は同じだが、恩師MMM部長の管轄から離れて、恩師TTT部長の部下となり、僕の業務としては、国内Xプロジェクトの選任として、企画部門に配属される事となりました。部下もいず、上司はTTT部長が兼任するそうで、この電話は、「また、一緒に仕事する事になるぞ!頼むぞ!」っとの内容と解釈した。

ブログの性質上、会社の細かい内部事情は記載できないが、個人的に、超ワクワクする内容。正直、海外駐在なんか行きたくないから、赴任場所としてもウェルカムだし、その業務の内容も、MBAスクールで学んだ事の復習(本来ならば、実践トライとなるべきだが)となりそうだし、なんせ、特命PJで僕一人だけだから、かなり思い切ったことできそうじゃない?しかも、TTT部長とは、以前、一緒に仕事したことあって、海外出張とか、ガンガン&バンバン黙認だったし、かなり、暴れてやろう!って気合入っています。

このTTT部長からの電話をどう解釈すべきか?
別に海外駐在って訳でないし、前もって人事発表を教えてくれることはWelcomeだけど、わざわざ、携帯に電話してくるまでもない内容だよね。まぁ、恩師的位置付けなので、それは、それで、大変嬉しい事なんだけど、今となっては、「また、頼むぞ!」のコメントをどうのように解釈しようかと、一人、悩んでいる。
会社復帰まで、あと1週間ある訳だけど、今まで、仕事の事を一切考える必要がなかったため、正直、今の心境は、バリバリ仕事したい!って感じ。仕事に飢えてる。さて、この一週間をどうやって過ごそうか?って、一人、悩んでいる。
当然、恩師に対し、期待値を上回りたい為、新しい業務の予習はパーフェクトにしたいよね。できれば、初日から、自分のイメージアウトプットなんかを、「・・・・・っとなるべきですよね?」ってカマシたいよね。凄くウズウズしてきた。さてと、今から、Googel検索+財務テキスト復習してみます。
   
なんか、また、あの以前の"完全徹夜態勢+18時間労働/日+週末仕事OK人間モード"の血が逆流してきているのを体に感じる。超ワクワク。でも、せっかく、MBAスクールで "Happinessとは?"っと自問自答する機会を得たため、以前と同じスタイルってのも悲しいよね。だから、以前は、すべてが、95%:5%=仕事:家庭だったけど、これからは、
精神的 80%:40%=仕事:家庭→120%完全燃焼
時間的 50%:50%=仕事:家庭→適度なバランス
密度的 2倍 :3倍 =仕事:家庭→濃い目に・・・
要するに、
以前=6:00出社+23:00退社+週一徹夜+土日出勤
今後=7:00出社+20:00退社+徹夜無し +土曜だけ出勤
ってな感じで、無理をしてみたいと思います。

2007年8月25日土曜日

Tokyo Disney Sea vs 富士急ハイランド


ブログ開始から自分では拘って、毎日更新続けてきましたが、バテました。この一年間、いいパパ実施していなかった為、汚名挽回として、集中的に家族で国内旅行を満喫してました。東京ディスニーシー行って、お台場行って、メリディアン泊って、僕の住む寮を訪問して、最後は、富士急ハイランド行って、結果、とても疲れました。お陰で、ブログ更新が途絶えました。問題ないです。問題は、当初、子供達はこの暑さでバテルだろう!と予測してましたが、さすが、ミッキー&トーマスに興奮するあまり、なかなかバテず、結果、親が疲労するというパターンに陥ってしまいました。いいパパできたかな?
僕にとっての東京ディズニーって言えば、今となっては伝説と化している、大学一年生時の当時の彼女さんとの初デート。夏前の出来事だったけど、恋愛モード開始して間もなく、どこか遊びに行こうか?って話になって、ディズニー行きました。伝説となっている逸話は、
①ディズニーランドに初デートに行くと、そのカップルは、分かれるって都市伝説、知ってる?
って当時の彼女さんが、言ってました。その発言のすぐ後に、僕は、「まじで?でも、伝説は、破る為に存在する宿命にある。それを破ろう!」って言った訳よ。ディズニーデート後に速攻、振られましたけどね。
②葛西臨海公園から沈む夕日を眺めながら・・・
ディズニーでいっぱい歩いたから疲れたわけで、初デートの後、葛西臨海公園から太平洋に沈む夕日を眺めるシーンを演出しました。ここまでは、結構、ポイント高いと思うわけよ(自画自賛)。これも、東京ウォーカーのお陰なんだけど。公園には誰もいず、本当、ロマンティックなシーンなんだけど、僕は、「今日は、ディズニー横のホテル日航に部屋予約してあるけど、泊ってく?」って聞いたら、洒落にならないくらい顔が引きつってた当時の彼女さん、あなたもストレート過ぎます!
話は、全然変わりますが、東京ディズニーランドは、調べてみると、1983年操業開始らしく、今日においては、売上高世界一のテーマパークなんだってね。もう、開園から25年にもなろうとしているんだね。東京ディズニーシーは、今回、初めて行ってみましたが、オープンは、2001年だったんだね。既に6年も経過してるんだけど、ディズニーシーは、坂道が多く、アトラクションも大人向けで、子供連れには不向きとかの前評判を信じ、なかなか行けなかったんだけど、実際は、GREAT!(超最高!)
ディズニーのビジネスモデルは、以前、「ディズニーの成功の法則」って本を読んだ事があったけど、あのカスタマーサービス、キャラクター戦略、徹底したスタッフ教育とさすがなんだけど、あの世界は、凄いねぇ。ディズニーシーは、総工費3,600億円らしいけど、それって、トヨタ自動車とかの経常利益額からしたら大したことない額なんだけど、あの世界は創造できないだろうなぁ~ってウォルトさんの偉大さを改めて痛感しました。今回、ファミリーツアーの一環で、2日後に富士急ハイランド(トーマスランド)を訪問したけど、2大テーマパークとして、どちらも素晴らしいですが、MBAホルダーとして、2つを比較してみたい
と思います。
ディズニーの偉大さ
①路上売店の豊富さ
炎天下の中、すぐに、喉カラカラになる訳よ。ディズニーは、路上のあちこちで屋台があって、ペットボトルを売っている。正直、2,000円は、飲料水に投資したと思うほど、よく利用した。また、あちこちでポップコーンを売ってる訳ね。今回は長男が、ポップコーンBOX運搬担当でしたが、イチゴ味、コーヒー味等々、これもまた、1,500円は投資しましたね。要するに、手が届く範囲で、欲しいものが散らばっている為、買ってしまう!
②配置スタッフの豊富さ
ディズニーは、こんなにスタッフは必要ないだろう?っと思えるほど、たくさんの従業員が路上に待機している。ゴミ掃除担当、案内係り、売り子担当っと、1分歩けば3人の従業員に会えると思う。これって、顧客満足度向上には重要で、道を聞いたり、困った時に、疲労で怒りに変わる前に対処してくれるので、なんか嬉しい。しかし、その費用vs効果は不明だけど、あの従業員の多さは凄いよ。
③Willingness to pay(購買力促進)の向上
あれ本当に犯罪だよね。今回、ミッキーと一緒に写真取れるレストランでランチしたんだけど、あの料理で大人3,000円だもんね。それでいて不満に思わない。異常なほどの金銭感覚の麻痺状態。長男は、「ミッキー!」って叫び、次男は、手をパチパチさせて大喜び。そりゃぁ~、金銭感覚麻痺させるわな。あれ、犯罪レベルだよ。
最後に、まぁ、息子達もニコニコだった事から、いいパパできたかな?あっ、8月24日(金)に大学からメールが届きまして、無事、祝卒業する事が判明しました。MBAホルダーとなれました。祝祝祝です。また、8月23日(木)には、会社から携帯に電話がありました。以前、ブログ「会社の恩師」コーナーで、取り上げましたTTT部長から電話でした。また、一緒に仕事する事となりそうです。楽興奮感動です。

2007年8月22日水曜日

Defining Moments(決定的瞬間の思考法)


左の「Defining Moments」とは、直訳すると「その時、その場面を定義する」って意味になりますか?要するに、予期せぬ場面に遭遇した時に、如何なる行動を取るか?取るべきか?ってのを問うた内容です。この本は、Harvard Business SchoolのJoseph L. Badaracco, Jr教授が書いた本ですが、重い内容の本です。

以前、Fleakonomics(邦名:ヤバい経済学)の本について書いた時に、結局、英語の原書を読めずに、日本語翻訳版に逃げた!っとこのブログで悲しい話をした事がありますが、今回は、汚名挽回として、この「Defining Moments」は、3月春休みに、555人生初の試みとして、英語辞書を一切使わずに完読した英語本の位置付けになります。やればできるっと言う事です。理解度は問いません。
本の内容は、When Managers must choose between right and right. (2者択一において、どちらの選択肢も正しい時に、何をすべきか?)って、いかにも意味深長な内容です。仕事だけでなく、プライベートにおいても、人生は選択選択選択選択選択の連続でしょう。選択する場面において、「正しい事」と「 間違った事」での2者択一では、選択として正しい事を選ぶ訳で、そんな簡単な事ばかりではないのが人生でしょう。選択するのに時間を掛けられれば問題ないのですが、時間的余裕もビジネスの社会では乏しいですし、自分の取った選択は、実は、部下はじめ多くの関連する人たちによって自分自身をジャッジされる事になります。人間性を問われる訳です。簡単な例として、転職する事は、ある意味、正しい事でしょう。しかし、同じ会社に留まる事も、これまた、正しい事ですから、One of the defining moments っと言えるでしょう。
自分にとってのDefining Momentsの瞬間が、先日、訪れました。プライベートな事ですが、僕の愛する人にとって、影響力のある、関連した人が93歳で亡くなりました。僕が、アメリカ旅行している最中であり、初日のシカゴの夜でした。実は、アメリカ旅行前にも病態は悪化していた為、いつ、亡くなっても不思議ではなかったのですが、せめて、アメリカ旅行が終わるまでは長生きして欲しかったですが、僕が、日本を不在にしている最中に大往生されました。アメリカ出発前から、事態を想定して、「旅行事体をやめるべきか?」、「旅行中に亡くなったら、すぐに日本帰国するか?」、「どんな事態になっても、旅行を敢行するか?」っと3つのDefining Momentsの中で、判断に悩みましたし、多くの時間を費やしました。結果、最後の「旅行敢行」っを選択した事となります。
結局、今となっても、何が一番正しい選択だったのか?悩ましいです。ただ言える事は、この決断に至るまでに、愛する人と議論する事ができましたし、お互いにとって納得いくであろう選択をできましたし、人間の死に対する重みってのも考える機会になったことは事実です。シカゴの夜、Northwestern大学近くのStarbacksCoffeeでインターネットをして知った訃報でしたが、ボーっと夜空を眺めていたことを思い出します。今、このブログを書きながらも、自分がとった選択が正しかったのか自信ないです。しかし、宣言しなきゃならないことは、「愛する人に影響を与えてくれたこと、その影響力が間接的に僕にも届いており、そして、子供達にも伝えられることを故人に感謝し、大往生ですので、無念さっと言うのは少ないかと想像しますが、天国で僕達の将来を不安視することなく、安心してすやすや寝られる為にも、僕達が頑張らんといかんです!っと強くコミットすること」で、自分の選択が正しかったと証明したいと強く思います。


PS:
著者のJoseph L. Badaracco, Jr教授が、7月初めに来日された際に、我がスクールにも来られ、90分の講義をしてくれました。その時、新しい本が出版された事をプロモーションしておりまして、その本のタイトルが、「静かなリーダーシップ」。今、この日本語版書籍を読んでいます。人はカリスマ的リーダーに魅了されますが、実は、組織は、静かなリーダーである管理職、一般職らによって日々業務を通じて、このDifining Momentsの基礎を追行しており、その集大成が、Defining Momentsの局面となりCEOは注目を浴びますが、平社員にズームアップした内容となっており、平社員こそが、会社&時代を変える先駆者であると述べています。まぁ、1/3しか読んでませんが・・・・

興味のある方は、下記、Amazonリンクをどうぞ!どれも、そこそこの値段します。
Defining Moments原書
Defining Moments 日本語翻訳版(決定的瞬間の思考法)
Leading Quietly 原書
静かなリーダーシップ日本語翻訳版

2007年8月21日火曜日

常葉菊川 春夏連覇の夢が途絶えた分岐点


夏を制すると言う事は・・・、偉大な・・・、難しいことなんですね。。。

今、帰省中の下り新幹線の車内で、ブログ執筆中。常葉菊川が、広島広陵に4-3で破れ、ベスト4で今年の大甲子園を終えた。ボーッとしながら、ブログします。史上6校目の春夏連覇を目指してきたが、堅実な広島-広陵野球に敗退した。この一年間、高校野球好きな僕としては酷であるほど、常葉菊川の試合を見ることできなかったが、今日は、常葉菊川と広陵の甲子園全スコアーブックをプリントアウトして準備し、初めて試合開始から終了までを、寮のテレビでフル観戦できた。その初めての試合で、負けてしまいました。残念でしたが、最後まで、負ける気がしない試合展開は、さすが、常葉菊川ってとこでしょうか。さすがの僕も、9回裏2アウトランナーなしになった時には、ヤバイなぁ~って思いましたが、よく最終回に3連打で2点返し、1点差負けゲームと試合を作り上げたところは圧巻でした。もう一度、対決することができたら勝てたかなぁ~って思いますが、まぁ、大甲子園はそんなこと許しませんから、結論として素晴らしいゲームであったではないでしょうか?来年につなげるという意味でも・・

常葉菊川の今年のベンチ入りメンバー18人の内、8人が1年&2年生の構成チームでした。日南学園戦で代打3ランを打った伊藤選手は、2年生。日南戦で、その伊藤選手に代打を送られ、結局、今大会ノーヒットに終わった5番バッターのレスト中川選手も2年生。広陵戦で最後のバッターとなってしまった2番セカンド町田選手は、2番バッターにも関らずフルスイングで最後の最後にサードゴロとなりましたが、その守備はピカイチ美味い選手です。彼も2年生。広陵戦先発した6番ファースト酒井選手、途中からサードに入った前田選手も2年生。控えのエースであった戸狩投手にも来年があります。常葉黄金時代の到来が確実であることを予感させてくれます。来年の常葉学園も強そうですし、ここ5年間は継続できるのではないか、っと感じます。

一方、広陵高校のエース野村投手は、抜群のスライダーで常葉から12三振を奪ったのはさすがでした。常葉学園も8回&9回と、さんざん苦しめられた低めスライダーを見極められるようになり、バットの芯に当て始めましたが、さすが広陵野球のノーエラー守備、抜群の走塁、決めるところでのセーフティー&スクイズバントは、すばらしい野球でした。完敗です。浜松商が目指したい野球でした。まぁ、浜商には、野村投手ほどのエースは、なかなかいないですが・・・。

上にも述べたとおり、今後、5年間の黄金時代を築く為に、そして、帝京や明徳、仙台育英のような定番私学強豪校にならない為にも、是非とも、今日の試合を振り返り、そして、PL学園のような(本当は松山商業、箕島高校と言いたいが、その領域には浜松商業が挑みますので・・・)神懸り的な勝ち方(シブトい)を目指してください。ブログの左側コラムで「夏を制するという事は・・・」と松山商業を連載しましたが、常葉菊川には、その可能性を大いに感じましたし、来年も春夏連覇を狙えるチームであると思います。今後にも期待したいと思います、「逆転の常葉菊川」っとなる日を・・・。(つまりファンになりました)
しばらくして、東京生活も終え、田舎に帰ったら、ゆっくりと息子と一緒に、常葉菊川・森下監督のシートノック練習を見に行くのが楽しみです。


89回(’07)夏準決勝結果
広陵高校 110 100 010 =4
常葉菊川 000 000 012 =3

555が振り返る試合の分岐点=9回裏2アウトランナー一塁、スコア4-3で迎えた常葉2番バッター町田選手への2球目。1球目は、ストレート低め見逃しストライク。その次の2球目が、広陵野村投手が投げた変化球でボール気味になるスライダー。その球を町田選手が引っ掛けてサードゴロとなりゲームセットとなるが、その2球目が試合の分岐点。8回以降、広陵の野村投手は、伝家の宝刀スライダーが高めに浮き始め、浮いた球は、ことごとく菊川打線に捕まった。町田選手は、167cmと小柄なセカンド2番バッターっと森下監督の申し子的存在であり、センバツ決勝でも大垣日大・森田投手よりセンターオーバーホームランを打った2番打者であるし、並外れた、型にはまらない2番バッター。野球に、IF は存在しないが、広陵・野村投手が投げた2球目スライダーが高めに浮いたら、試合は続いたと思うし、あれが、低めに決まったことによって、サードゴロ終了となった。要するに、常葉菊川打線から12Kを奪った野村投手の最後の1球が大事な場面で低めに決まった瞬間。常葉菊川の夏は終わった。それほど、最後の最後まで、常葉は頑張ったと思うし、最後の最後に、スライダーをあそこに決めた広陵・野村投手が素晴らしかった。完敗である。




PS1:
PL学園は、第60回に西田投手&木戸捕手(阪神)を軸に、逆転に次ぐ逆転で、悲願の夏初制覇をします。それ以来、「逆転のPL」と言われるようになりました。できるよ、常葉菊川も・・・。

★60回(‘78)夏準決勝 延長12回
中京高校   000 101 011 000=4
PL学園   000 000 004 001=5

★60回(‘78)夏決勝 西田&木戸時代
高知高校 002 000 000=2
PL学園  000 000 003=3


PS2:
熱闘甲子園でお馴染みの甲子園出場チームが宿泊する宿ってのも味がありますよね。敗退後、宿の一室で監督が選手を激励するシーンや、2年生が先輩達にコミットするシーンなんかが熱闘甲子園のエンディングに流れて、それがまた、いい味を追加しますよね。そんな事で、今大会の宿泊先トピックスを下記纏めます。

高級ホテルに滞在しているチーム
1位=常葉菊川 ホテル日航茨木大阪 リンク先(高ぇ~)
2位=長崎日大 リーガロイヤルホテル堺 リンク先(うひょ~)

これぞ県立高校の滞在する定番コテコテ宿泊先
1位=今治西 尼宝館 リンク先
(松山商業もここですが、車7台駐車可能、8室40名収容可、5人部屋か?いい味あるよね)
2位=沖縄興南 宝月旅館 リンク先
(6部屋、69名宿泊可、いいよね、これだよね)
3位=仮に浜松商業が甲子園に出場した場合は、有馬温泉旅館

2007年8月20日月曜日

日本帰国. 目標達成率33.3%


8日間の短いアメリカ旅行も終了し、無事、日本に帰国できました。当初掲げた目標1)クリスピードーナッツ、2)MLSベッカム、3)Oral Difense視察の3つのうち、Oral Difenseしか見学できなかった為、目標達成率は、33.3%という事になります。こんな出張報告を民間企業でしたら、まぁ、駄目社員でしょうね。でも、いいですが・・・
今回の旅行は、両親も一緒でしたが、訳もわからず、理由もなく、多くの大学を訪問しました。これは、ツアーコンダクターの僕の日程表に基づき、強制的に、そのような内容にしました。希望は聞いていない為、聞いても採用される可能性薄なため、このようになることは自然な事でした。実は、僕は、今の会社に内定を貰っていなかったらJTBにも内定を貰っていたのでツアーコンダクターって仕事も可能性あった訳ですが、自分の自我を優先するあたり、JTBに入社したとしても駄目社員だったでしょう。
訪問した大学は
1)Northwestern Unversity (MBA Kellog Campus)  リンク先
2)Universty of Chicago (MBA Campus)   リンク先
3)University of Illionois (Anthropologies Campus) 
4)University of Kansas (Anthropologies Campus) リンク先
万が一、超英語ができて、しかも、スーパー賢い頭脳を持っていたと仮定したら、MBAスクールとしてノースウエスタンかシカゴか?1ヶ月くらい悩めるくらいどちらのキャンパスも素晴らしい環境でした。僕は、今でも、どっちがいいか悩んでいます。参考までに、2006年ビジネスウィークMBA評価では、1位=University of Chicago、3位=Northwestern。2007年USニュースMBA評価では、5位=Chicago/Northwestern。同票で同ランクです。いずれにせよ、悩ましい選択です。どうしましょうか?受かってから悩むべきでしょうか?
イリノイ&カンザスは、とあるアメリカに住む女性が、PhD取得した大学ですし、また、助教授として新しい一歩をスタートする場ですが、もう北海道大学キャンパスを越える広大な敷地と、充実した施設(図書館、ジム、緑環境)といい、これぞ、The great 田舎of the United Stateって言うほどの贅沢なキャンパスを備えています。死ぬほど缶詰になって勉強したい僕みたいな人にはお勧めかもね。いや、でも、NorthwesternかChicagoか?
今回の旅行は、当初計画に対し、33%達成率となりましたが、予想せぬ面白い観光もできましたので、B級ツアー視点としては、満点だったでしょう。
予期せぬGreat観光
1)St. Louis Cardinalsのスタジアム リンク先
関西学院出身で、阪神と相思相愛だった田口選手が活躍する球団ですが、実は、MLB発足時の4チーム(NY、Boston、ChicagoWhiteSox、Cardinals)の1チームであり1882年創設と歴史ある球団。巨人の星での星飛雄馬のライバル-オズマを野球サイボーグに育て上げた球団。所謂、マグワイアー養成球団。今まで僕が見た、Yankees、SFGiants、AtlantaBravesのどれよりも綺麗で格好良いし、これぞ、MLBスタジアムって感じ。
2)Beerと言えば、Budweiser
1876年創業、世界生産量No.1の会社といえばバドワイザー。本社は、St.Louisにあり、無料で工場見学付き試飲遣り放題が楽しめます。その場の雰囲気で、BudLight最高!っと思って飲んでましたが、今振り返れば、MillerLightの方が美味いのでは?っと思いますが、まぁ、本場ってのがいい訳で、また、アメリカ中部のどんよりした暑さの中で飲むのが最高な訳で、まぁ、Budweiserっていい会社ですよね。
3)Kansas BBQ
なんでか知りませんが、中部都市カンザスは、バーベキューが有名で、そのソースは、The best of the planet と言われるほど、地球上で存在するソースの中でも群を抜いてズバ抜けているとの評価有り。確かに、ソースは美味い!エバラの負け!

4)John Hancock Center展望ラウンジ
クラスメイトからシカゴで夜景を楽しむならばSearsCenterでもなくて、JohnHancockの展望フロアー(94F)でもなくて)、95階にあるBarで見るのが最高!っと教えてもらったので行きました。Beer、カクテルは、相場5$でリーゾナブルですしお勧めです。僕はビール飲みながらボーっと夜景眺めて、「奥さんや彼女をここで口説いたら、絶対、Coolだなぁ」って一人想像してましたが、隣にいた両親は、シャカシャカ写真撮ってまして、ムーディー度合0%でしたが、シカゴの夜は、Hancockで決まりですね。 左上の写真は、Johnハンコックから北側(Northwestern側)を眺めたショット。
5)駐車違反
イリノイでレンタカーを路上駐車していたら違反切符がフロントウィンドーに貼られてました。まぁ、金額も12ドルでしたし、レンタカーなんで追跡するのも困難ですし、逃げ切れるかな?っと思い、逃げ切る作戦を敢行しました。帰国して、お台場の寮で、クラスメイトと「どうよ、日本の夏は?シカゴは良かったぜぇ~」みたいな自慢合戦を昨日しましたが、友人(アメリカ12年滞在暦有り)は、「レンタカーでも追跡されるよ。Hertzに請求書が行って、登録されているVisaに請求されるから安心しなよ」って事なんで、さすが、CIA抱える国家、請求書が来たら、払うように致します。違反切符は、ゴミ箱に捨ててしまいました。悪い事はしてはいけないですね。ペコリ!

2007年8月19日日曜日

餃子日本一を背負って・・・


現静岡県議会議員の大岡敏孝さんって、僕よりも2歳年上なんだけど、それは、それは、立派な方なんですよね。滋賀県生まれですが、鹿児島ラサール、早稲田政経、松下政経塾、スズキ自動車勤務し、27歳にて浜松市会議員へ立候補し、当選獲得票数3,000票がボーダーな中、1万票を超える支持を受け、トップ当選された。その後、浜松市長選挙へ、30過ぎで立候補し、敗れはしたものの8万票獲得した。そこで踏ん張り、今は、県議会議員として、最終的には、国政を目指しているのではないかと思う。(大岡議員HP:oooka.com 格好良い!)

参考までに、左上の写真は、ホームページより、彼のキャラクターを貼り付けさせてもらいました。こんな感じの人です。実は、今から10年ほど前でしたが、彼が、まだスズキに勤務されていた頃、とある貿易実務研修みたいなセミナーに参加した際に、彼とは、一緒にビールを飲んだ記憶があります。私は、違う会社から、そのセミナーに派遣されてましたが、富士山の麓に2泊3日で缶詰になって、インボイススイッチやら、Bill of Ladingやらの通関業務を学ぶ場でした。大岡氏は、その時から、市議会選挙に出る!っと公言していた為、僕は、「最低当選得票数が、2,000ぐらいだから、行けるでしょ!頑張ってくださいね!」なんて、応援したんだけど、結果は、トップ当選されて、誠に申し訳ないコメントをしてしまったなぁ~って後悔している。彼は、度量が大きく、「目指すからには、トップ当選を目指しますよ。今度、うちに来て、飲み会でもしましょうか?」って誘ってもくれたけど、それ以来、疎遠になり、遠くから彼の街頭演説を見ることで、影ながら応援させてもらっている。

前置きは、このくらいにして、555が浜松市議会議員選挙へ立候補すると仮定し、その時の公約をこのブログで詠ってみたいと思います。今では、故郷は、政令指定都市へと飛躍し、人口80万まで伸びてますので、市会議員最低必要得票数は、4,000票が必要となっています。その為、その4,000を取りに行く施策を訴えてみます。



浜松文化大革命
我が故郷と言えば、ピアノ、バイク、ウナギって単語が並びますが、これらは、すでにブランドとして確立されており、不動の位置付けとなっている。ウナギは近年、鹿児島産に押されてきてはいるが、春華堂のうなぎパイは全国区ですし、パッケージとしての実力は、先代社長の東京駅キャンペーン初め、不動っといっていいでしょう。そこで、ここ1年で、故郷を活気付けるもうひとつのアイテムが加わろうとしています。餃子です。餃子の消費量が、日本一になろうとしています。

政令都市&県庁所在地だけでの国勢調査で、浜松はいつも除外されてましたので統計外でしたが、この度、事前調査したところ、宇都宮が4,000円レベル(一家の年間消費量)に対し、浜松市は、3倍の12,000円を越える見込みらしいです。私見として、12,000円(1,000円/月平均)は、一人当たり成人消費量かと思えるほど、一家で12,000円は、少ないのでは?っと浜松市民は思うのではないでしょうか?この基準は、総務庁が定めていますが、冷凍チルド、餃子専門店での外食費等は、含まれないためです。なんせ、街には、80軒もの餃子専門店(専門だよ)が乱立し、餃子を扱うラーメン屋もカウントすると、300以上になるそうです。ましてや、家で餃子巻く文化も根付いている為、それらもカウントされないと思うと、悲しいですが、正直、ダントツですし、もう食文化なんです。我が家では、長男は、3歳にして、ママの晩御飯準備で、餃子まきを手伝っている為、すでに、3歳から英才教育は始まっているのです。

浜松餃子は、肉よりも野菜が多く、その甘みが特徴で、お皿に盛り付ける際に、もやし炒めもセットに付けるあたりが特徴でしょうか。また、個人的にこだわってますが、ラー油が、一味唐辛子粉入りってのが、僕が大好きな理由です。自宅では、ほとんど、キッチンに立つことがない僕ですが、唯一、自分のラー油を作る時だけ、自分でコンロの鍋に全力を注いでいます。宇都宮には、本当に申し訳ないですが、浜松は、製造業を抱えており、夫婦共稼ぎ家族が多く、ママが残業で帰宅が遅い時は、餃子が晩御飯ってのが定番ですし、オジサン達は、居酒屋気分で餃子専門店でビールのツマミとして餃子を摘みますし、母校の学食でも餃子ラーメンが単独メニューとして成立している辺り、ダントツなんです。以前、高校野球で、浜松シニアから横浜高校へ多くの素質ある選手を送っているっとブログした事がありますが、当然なんです。だって、彼らは、練習で疲れた体を、うなぎ&餃子(たまに、すっぽん)で、癒す事ができ、精力ガンガンな訳ですから!

しかし、餃子の話になった時に、「浜松が一番。宇都宮ではない!」なんて、宇都宮をライバル視した低俗バトルは避けなければなりません。イチローが日米合算で3,000本のヒットを最速にて更新している時に、張本氏が、「いずれにせよ、日本球界の記録は私ですから!」っと言うのを多くの人が虚しいと感じるのと同じように、宇都宮は何も言えないし、ましてや、イチローもそんな事に拘っていない。要するに、浜松餃子は、ブランド向上の為に、ライバルを他に求めなければならない。


宇都宮さんへ:
僕は、過去2回、宇都宮を訪問しており、その際、5軒程の餃子を食べ歩いています。正直、宇都宮では、餃子しか食べた記憶ありません。宇都宮餃子は、さすが、激戦区とあって、サッパリした味、何個でも食べれるんじゃないか?って思えるほど美味しいことはファンとして認めています。今後も、いい勝負していきましょう。


B-1グランプリ優勝を目指す
日本全国のB級グルメが集い、毎年、グランプリを選出している(リンク先)。過去2回実施しており、2年連続チャンピョンは、「富士宮焼きそば」で、富士宮は、B級グルメにて広島商業になろうとしている。はやく浜松も追いつかないと、差が広がるばかり。時間は、そうない!注目すべきは、静岡おでんが、3位入賞。さらには、21地域が参加している大会において、静岡県参加地域は、5つ(裾野・水餃子、袋井・たまごふわふわ、浜松・餃子)と、B級グルメ会における静岡は、大激戦地区な訳です。要するに、敵は宇都宮ではないし、敵は県内市町村って事になる訳です。


B1グランプリにおける作戦を考える
確かに、富士宮やきそばは美味い。あの肉油カスは、競馬で言うところの重量ハンディーを付けなきゃならないくらいに美味い。土地柄、学会さんの富士研修のお土産として、焼きそばが全国家庭へ浸透するその組織力ってのも素晴らしい。学会パワー以外にも、東洋水産とタイアップして「富士宮やきそば」を全国スーパーに供給しているのもマーケッティング的に完敗だし、久本雅美妹を親善大使に雇っているのも、浜松の5歩先を歩んでいる。ライバルにして、不足はない。

餃子は、B1で勝つために、相当のハンディーを背負っている。最大の難点が、餃子のタレ。池袋ナンジャタウンの餃子博物館でもそうだが、テイクアウトした時に、あの油まみれの餃子タレ袋を破るのは至難の苦労だし、油と反発するタレが、見栄え&食べやすさの点において、相当な不利を被っている。これを打破しないと、B1ステージで勝つことは正直、難しい。要するに、餃子タレを粉末化orおたふく粘性ソースに改良する必要性が出てくる。これが、今後100年、B1グランプリの座を不動の地位にする為に求められる。超長期的な野望だし、このタレ革命こそが、餃子文化大革命の所以でもある。静大農学部、静岡県立大食品衛生学部、または、浜松医大、頼む!究極の産学共同革命興しませんか?


市議会選挙の公約
1)B1に勝ちに行く街づくり基盤整備
2)餃子だけによる市街地活性化プランの実践
3)浜松市立の公立学校のナップサック革命


公約実行のアクションプラン

浜松市市街地の不況は、悲しい限りで、旧松菱デパート撤退後のテナント不作は、象徴的。故、2010年目指し、松菱跡地に「B級グルメ-PRIDEグランプリ会館」をオープンさせる。なぜ、高田延彦のPRIDEが注目を浴びるのか?キーワードは、異種格闘技、真剣ガチんコバトル、敗者は去れ!の3つに尽きる。これを餃子B級バトルに結びつけると、

1)
遠鉄高架下にいまある「ラーメン横丁」だけでは、全然、物足りない。惜しい。松菱跡地に、8店舗入居できるスペースを確保し、4軒分=餃子専門店による経営、他の4軒=異業種B級ウェルカム(銀たこ、焼きそば、もんじゃ、なんでも来いや!宇都宮が、あーだーこーだー言うようなら、道場破りに来いやぁ!)。そこは、厳しいバトルの場であり、3ヶ月毎に、人気投票による入れ替えが行われる。そこで、勝ち続ける事は、名誉な事であり、B1グランプリを勝ちに行く予選の場ともなる。そこでは、一皿300円に設定し、入り口で割り箸を客に配り、その割り箸を2票分として、好みの店に投票していく。3ヶ月の短期間勝負。年間チャンピオンは、田町浜松祭り激練り同好会による激練訪問の根拠ない名誉を獲得する。
2)
富士宮が、地理的好条件に由来する富士学会研修を味方に、全国区になった事は、学習済。我が故郷の人口的好条件とは、日本一の人口を抱えるブラジル人ネットワーク。当然、PRIDE年間制覇のB1店には、サンバチーム訪問し、そのサンバチームのブラジル派遣により、僕達は、地球の裏側から、このB1-PRIDEを普及させていく。どうだろうか?サンパウロに住む日系移民の方々は、このB級グルメこそが、日本の食文化と認識しているはずだし、涙するのではないでしょうか?このサンバとのタイアップこそが、街の活性化、誇りある街づくりへと向かわせることとなるのではないでしょうか?
3)
雪国まいたけの「♪きのこのこ・・・・♪」は、しいたけ嫌いな子供達を熱狂させた。要するに、中学生の通学用ナップを餃子をモチーフにしたリュックサックへと改良する。どうみても、可愛い。修学旅行で訪問した各地で、ちびっ子達は、「なにあれ?カワイイ?」って事になる。浜松市中学生は、このことから、郷土への愛着、誇りを感じる事となる。観光地で、「なんで、餃子なの?」って聞かれた中学生達は、「あっ?これは、僕達のライフスタイルです。」って多くを語らず、Cool!教育の現場に、商業的要素を持ってくる事には、賛否両論あるが、目指すは、「郷土への誇り高揚」&「ちびっ子まっしぐら」である。


選挙結果の予測 (編集後記)
この公約で、4,000票取れるでしょうか?絶対、無理でしょうね。それに、この公約は、Sustainability(持続性)が乏しいですしね。そういった意味でも、前述の大岡県会議員は、偉大ですね。僕の場合、市議会選挙は、落選ですね。そして、笑い者になっちゃいますね。そしたら、この企画を背負って、「マネーの虎」にでも出演応募します。


数分の沈黙のあと、虎たちが噛み付いた!
きっと、ワタミの渡邊社長or美空ひばり長男あたりが、噛み付いてくれるんじゃないかなぁ~って期待しています。PRIDE会館のオープニングでは、浜松市長によるテープカットの後、総合企画プロジューサーの555がマイクを握り、次のように叫ぶ事を夢見て、この企画、封印しておきます。

全国のB1ツワモノども、出てこいやぁ~!
今、確実に言えることは、北海道千歳と浜松市過疎地で仕事している高校時代の友人2名だけは、「おぉぉぉ!」って熱狂してくれる事だけは、確信できる程度です。

2007年8月18日土曜日

Happy Harada (原田)


日本の夏、猛暑の夏には全然相応しくない今回のネタとなりますが、先日、2014年冬季五輪の開催地がロシア・ソチってところに決定しましたよね。どこですかね?黒海に面するリゾート地らしいですね。これで、残すは、東京が立候補表明している2016年夏季オリンピックに注目シフトできますね。

オリンピックって素晴らしいですよね。モスクワ五輪では、冷戦の中、辞退国多発しましたが、その後、競技祭典に政治マターを織り込むことは如何なものか?っと言うことで、参加国&規模共に拡大の一途です。台湾が、Chainese Taipeiとして参加している事は、美しいです。私は国家主義者ではないので、「がんばれ、日本!チャチャチャ♪」にはついていけないところありますが、オリンピックの競技映像からは、ジーンとくるシーンがたくさんあります。
冬季に限定しても、サラエボ(84年)で黒岩彰失速には、幼いながらに興奮したし、極限の緊張感を背負うアスリートって凄いなぁ~ってのを覚えています。カルガリー(88年)で、その黒岩彰が銅メダル取るあたりにリベンジの原点を知りました。めちゃくちゃカッコウ良いことですね。アルベールビル(92年)は、ちょうど、一浪していた僕が、2度目の大学受験をしていた時であり、最終的に母校となる大学受験日前夜、ノルディック複合(荻原健司、三ケ田、河野)チームは、2日目のクロスカントリーを激走しており、受験前夜にも関らず、巣鴨駅周辺のホテルで、荻原が日の丸国旗を抱えながらのゴールシーンに酔いましたし、勇気を貰いましたし、お陰で眠たかったです。その後は、伊藤みどりの長野(98年)、???のソルトレイク(02年)、荒川静香のトリノ(06年)っと続く訳です。世界に誇れる日本人達ですね。男性アスリートしては、弾丸清水宏保は、水泳で言えば北島康介っと匹敵するくらい、皆が期待する通りに、自分が描くシナリオ通りに、パーフェクトに勝つあの実力、そこに至るまでの自分を追い込むプロセスは尊敬に値しますね。

さて、僕が、心から尊敬し、人間性としても理想とする選手は、実は、上記には挙がっていないアスリートです。彼の名は、Happy Haradaです。原田雅彦です。あのジャンパーです。彼のスタイルは、起死回生の大ジャンプ、リレハンメル(94年)の失望失速、トリノでの規定違反失格っと、浮き沈みが激しいです。全然、安定してないです。しかし、僕は、心から彼を偉大だと尊敬し、自分のあごがれるキャラクターなんです。



原田の偉大さ
①リレハンメルの失速
よほどの大失敗ジャンプしない限り金メダル確実のジャンプ団体の場面、原田は最後の一本をアンカーとして飛ぶこととなる。原田の前には、ドイツのエースが135.5mのスーパージャンプしたのを確認し、日本国民の期待は、原田にのしかかる。ドイツ選手の結果を受けて、105m以上のジャンプで日本の優勝は決まる場面、あの失速ジャンプ(97.5m)の結果となる。日本団体は銀メダル獲得にも関らず、原田は最大のバッシング、冷たい視線を受けながらの帰国となる。

ジャンプを勉強してみると、滑走路を下り、踏み切り盤経過時のスピードは100km/hにも達し、実質の踏切るタイミング許容距離は80cmと狭い。そこに合わせて踏み出さなくてはならず、船木は平行前方へFlyするが、原田は彼のこだわりで上空前方へとFlyする。これを変えない。
実は、94年リレハンメル前後は、原田よりも葛西が絶好調であり、本来、葛西がエースとしてアンカーすべきであったが、まさに重圧からか、葛西はリレハンメル期間だけ絶不調。その為、本番で強いっと評判であった原田がラストを努める事となり、あの失速を迎えたのであった。 あの場面、自分がラストジャンパーだったら、どうします?また、失速ジャンプの後、どうします?


②長野のスーパージャンプ
ノーマルヒルで、再度の失速。メダルを獲得できず、翌日のラージヒルを迎える。その一本目、また、距離が出ない。世間は、「もう原田は、ダメダァ~」って思ったんじゃないかな?当時、僕は、大学4年生で、卒業間近の春休み。巣鴨のオンボロアパートで一人テレビ観戦しながら、「2本目、2本目、行けるから・・・・」って応援してたのが懐かしい。その2本目に計測不能のスーパー大ジャンプをする事となる。計測不能だから、飛んだ直後は、飛距離表示されず、結局、最後のジャンパーが着地した後に、数分の間をおいて、135mっと発表された。結局、一本目失速が響き銅メダルと終わるが泣いた。本当に、彼には感動した。号泣したし呼吸困難になたっし。

最後の締めくくりは、団体ジャンプ。長野のエースは、船木だった。原田は3番手の順番で、一本目飛ぶが80m弱。確かに、映像は吹雪だし、風時代も原田に味方しないし、外部環境が彼を見放した。長野時代では、本番に弱いっとレッテル貼られていた。感動は、二本目の137mジャンプ。もう、ある意味、彼を信じることはできないだろうね。波が大きすぎるし、決めて欲しい時に決めてくれないし、駄目だぁ~って思ったらそれを裏切ってくれる。彼曰く、複雑骨折してもいい!との覚悟でのジャンプだったそうだ。その後の船木も無事に決め、祝金メダル。

実は、長野前の世界選手権、ワールドカップは、原田は絶好調で地元長野開催のオリンピックは、エース的存在であった。現役世界チャンピョンの王者なのである。しかし、マスコミは、本番に弱い原田のレッテルを貼り、世界王者に対する扱いとは程遠かった。アンカーの船木のジャンプを待つ下から見つめる原田は、意味不明発言を繰り返し、精神心理学専門家も、その極限の原田精神状況を「破壊」っと読んでいる。 あの場面、自分が原田だったら、滑走前にリレハンメルがヨギルよね?打破できる?

③トリノの失格
2006年トリノでは、日本ジャンプ陣にとっては、痛い規定改訂に直面する。所謂、飛びすぎ防止の身長&体重から計算された板の長さ変更である。ややこしい話だが、原田が174cmならば、板の長さは254cmまでが限界で、体重(ブーツ含む)が61kg以上なければならない。検査の結果、60.8kg(200g足りない)。仮に原田が173cmならば、253cm板となり、体重60kg以上が規定となる。実質、そのシーズンの原田は、173cmなのでセーフの筈だが、なぜか、オリンピック国際スキー連盟に提出された申請値は、前年シーズンの値(174cm)だったことが判明。

マスコミは、コーチ等が試合に集中できるように選手環境整備をしないといけない身分にありながら、選手任せにしたコーチ陣を指摘した。原田は多くを語らなかった。不平不満を言わなかった。テレビカメラの前では、「勘違いだった」っと笑って答えた。だから、誰の責任なのか、未だにハッキリしていない。あの場面、自分が原田だったら、どうする?コーチ殴る?正直に、テレビに全て言っちゃう?悔しくて、取材拒否する?


最後に僕が、原田を理想するのは、一発狙いの大飛躍(その豪快さ)って事では全くない。彼の人間性が大好きだ。苦しい時、悲しい時、絶体絶命の時に、いや、苦しければ苦しいほど反比例するように、彼は、いつも笑っている。そして、嬉しい時、偉業達成した時には、逆に、泣き崩れる。自分は、そんんな大人(親、上司)になりたいと思っている。

最後の最後に、上記ストーリーを十分満喫できる原田映像をYouTubeで御覧ください。「これからも、何回も復活します。」金と同じと書いて、銅っと呼ぶ」「みんな頑張ってるんだ!」「ふなきぃ~、ふなきぃ~」


2007年8月17日金曜日

夏休み自由研究 (555家系)


中国改革開放政策の指導者でもあった鄧小平が亡くなったのが、1997年(92歳)。皮肉な事に、香港の中国返還の半年前であった。当時、鄧小平の指導者として、何に一番驚いたかというと、文化大革命による失脚でもなく、第1次天安門事件後の2度目の失脚でもなく、あの毛沢東と対極にいながらにして中国共産党最高指導者までの地位にたどり着いたことでもなく、1989年の第2次天安門事件で学生に武力弾圧を踏み切った事でもなく、個人的には、彼が16歳であった時に、フランスへ留学しているっという事だった。その頃の日本は、第一次世界大戦勝利にも係らず、米騒動で国内大荒れの頃だっただろうか。僕にしてみたら、1986年に初めて、親の資金援助の下、イギリスの空気を吸う機会を得たが、それだけで感動できたし、それが、66年も前に、世界が戦争で混乱している時に、ヨーロッパへ行く事とは、どういうことか、どれだけ凄い事だろうかっと、勝手にその偉大さを痛感していた。
世間の学生は、夏休み真っ只中。よって、セミがせわしく鳴くこの季節といったら、やっぱし、夏休みの自由研究に尽きると思います。そんなカンダで、始まります。「夏休み自由研究-555御先祖さんを訪問(ぶらり一人旅)」ってのを企画しました。実は、中学1年生の時に、その自由研究のテーマとして、「555家系図」をさかのぼった事があります。当時は、インターネットとかないですから、生き証人をツテに、聞き込み調査をして、難しい家系図書籍を読んだ人から、その内容を聞いたり、また、祖父母から話を聞いて、それを纏めました。その時の感想は、「なんか、御立派な御先祖様がいる様だ。難しい名前で、何をやった人かも難しくて分からないけど、そんな先輩と身近である事は、誇らしいなぁ~」って13歳の時に、率直に感じた事でした。

時代は変わり、今はネット時代。2時間もGoogle検索すると、大抵の満足できる情報にたどり着くことできましたので、それを今回のブログは、纏めたいと思います。10年後の息子達の夏休み研究を先取りして、Good Papaする為に、纏めておいてあげようと思います。



---- 総括まとめ ----
いきなり総括かよぉ~って思う人いますが、細かいこと書いたら、本当に難しい内容ですよ。なので、細かい内容は、末尾&リンクにて割愛します。555家において、僕は、18代目になります。江戸幕府時代の徳川家が15代ですので、18代というと結構、さかのぼると長い話です。直系18代っといったら、それは、神聖な事ですが、長い歴史の中で、枝分かれを繰り返し、555は、直系ではありませんが、各代を並列で並べた時に、同じ苗字を名乗る枝分かれ血族として、18代目にあたります。素を辿って行くと、400年前には、ある1人にたどり着くという、壮大な歴史ロマン感じるって事です。また、そんな歴史書が残っていたり、それを研究して後世に残そうとしている人がいること事体、ロマンあります。

御先祖様の中には、学問を積まれた方、産業界で活躍された方、文学界で名をはせた方が、同じ苗字で、しかも、その血を1/100(いや1/100,000,000)でも薄まった状態でも、僕の中に流れていると考えるだけで、何か、御先祖さんに誇りを感じます。僕は、自分の成人式の時に、祖父が祖母との結婚式の時に着用した袴をまとい、式に参列し自分の成人を祝った。その袴には、家紋が刻まれていたが、今になって、その家紋に更なる誇りを感じる。御先祖さんの中には、1900年代初頭に大陸にビジネス訪問した人、1920年代にイギリス、パリ&ベルリンに留学した人が居る事を誇りに思います。彼らは、そこで、何を見たのかなぁ~って、天国に行ったら、会話したいとも思います。

誇らしい先輩が、同族から出ている事を誇りに思いますが、これは、自慢してはいけないんだと思います。彼らもそれを望まないだろうし、それを自慢したところで失うものの方が、大きいでしょう。ただ、僕にとって、彼らの功績は、自信を与えてくれるものであり、この御時世が変わった今、血筋は大きな意味を持ちませんし、また、その七光りを生かしきれていない今の自分を振り返った時に、頑張らんといかん!っと強く自分にコミットする事だけです。頑張らんといかんとですたい!

今回の自由研究で知った事は、自分が土壇場ピンチに陥った時に、胸に手をあてて、目を閉じたときに、 「今まで日本一の練習(訓練)をしてきた。それを自信に!僕は、勝たせてくれる何かを持っている。頼む助けてくれ!」っと念じる自分の背中を、スッと優しく押してくれる、いわば、お守りみたいなものにしていきたいと考えています。

◇◇江戸初期~末期◇◇

黒字   =インターネット記事のコピー主体
赤字   =トピックス(偉業)
青字   =555感想コメント



藤原氏555家系図 
長上郡のうち天王郷といわれた土地で、そこは後に寛文年間(1661~1672)頃に分村して下堀村と呼ばれるようになる地区であるが、大竹藪をめぐらした屋敷を構える鷹森(高森)太郎左衛門重治がその元祖であり、慶長8年(1603)に死亡した。所謂、2003年が死後400年という事になり、静岡県市野町にある宗安寺に、約60人の子孫が集ったそうである。555実父が、集合写真で、最前列をキープしているあたり、度胸だけは尊敬します。もともと555家は、高森(鷹森)姓から始まっている。織田信長が今川義元を桶狭間で破ったのが、1560年であり、この今川義元の地侍であった高森左衛門重治が、下堀に逃れてきて土着したとされている。

天正年間に浜松城主であった徳川家康が、領内の巡視と、領民の心をとりおさえるために鷹狩りを行い、しばしば、高森家に立ち寄った。庭内の梅の木に鷹をとめてたので、その梅の木を鷹梅と呼ばれたといい、屋敷は大竹藪を周囲にめぐらし、年中多くの鳥が集まっていたので、家康は、555と繰り返し、ついに、家康の命によって、高森を555と改姓したと言われている。その広大な領地は、天王村の堀を巡らせた555孫左衛門家屋敷図(家相図)にも屋敷森が画き込まれている事からも推定できる。この由来は、555家から藩庁へ提出した文書には言及されることを常としたり、前掲の「藤原家555家系図」 に特筆大書きされたりしているほどに、近世では権威の証であった。「藤原氏555家系図」 上での年紀の下限は、享和3年(1803年)であるが、その時点では、20家を数えている。これ以後、幕末期には、例えば、位牌座をもつ555家は、18家あり、これから見ると、近世を通じて、555一族を構成する家数は、ほぼ推定できようか。

*要するに、555家は、高森(鷹森)姓から始まる。詳細は、高森→555→鷹森→555。555姓は、倒幕&明治維新の情勢上、公にする事は幕府支持を表現する為、当時の直系以外は、555姓を一時辞め、鷹森姓を名乗ることとなる。しかし、再度、時代の平安と共に、555へと戻す者もいた。僕は、この家系図を13歳の時に、手に取って見た事あるが、タタミ半畳くらいの大きさで、でも、上記にあるように、幕末までしかなく、その後、どうなってんだ?って、人の名前、系図線いっぱいで、混乱したけど、今、同じように、この家系図を握った時に、何を感じるだろうかな?



江戸末期の555家(弓術)
寛政年間(1789~1800)に孫左衛門家9代目の茂敦が袋井の木野理兵衛武住から相伝を受けて印西派13世を継いで以来、3世に渡り弓術を継承する事となる。日置流は室町中期に大和の日置弾正正次が創めた流派で、雪荷派、印西派などあるが、そのうちの印西派が見附(現在の磐田市)の上村清兵衛によって遠州に伝えられ、15世を継いだ孫左衛門茂清(前述茂敦の息子)の代には、遠州だけでなく三河にも広がって門弟は千人を数えたと言われる。

弓術は精神修養の手段として礼法化すると共に、競技としても人気を集め、遠州地方の神社には矢場(弓道場)を設けた所が多く、江戸時代から昭和戦前期にかけて奉納競射会が盛んに行われ、名人達が技を競った。競技会では的を次第に小さくしてゆき、最後には直系2寸(6cm)の的を15間(27m)の距離から射ることは殆ど困難であるから、みごと射抜いた者は、その的を奉納した。今でも神社の拝殿に奉納額が残っていることがあり、その額には、「日置流印西派555孫左衛門門人・誰某」と書かれたものが多い。



賀茂真淵(かものまぶち)1697~1769
時代は前後してしまうが、江戸中期の歌人・賀茂真淵とも繋がりがある。555家の後世の娘を母とした賀茂真淵は、次の歌を読んでいる。「むかし君 み袖ふれけん 梅がえの いまも香るか あはれその花」 意味は、学不足の為、ここでは省略。

江戸中期の国学者(日本国学の4大人の1人-荷田春満、賀茂真渕、本居宣長、平田篤胤) 遠江国伊場村(静岡県浜松市)の加茂神宮神職、岡部家の分家に生まれた。同族岡部政長の婿養子となるが、妻と死別したのち実家に戻り、浜松の脇本陣梅谷家にむこいりする。若い頃より荷田春満の門人杉浦国頭に学んだ真淵は、この頃学問に目覚め、37歳で上京するたびに春満に会い、儒医渡辺蒙庵に漢学を学び、享保十八年(1733)梅谷家をはなれて京都・江戸に遊学して各地で古典の講義をした。延享三年(1746)50歳の時に御三卿の田安宗武(八代将軍吉宗の次男)に和学御用として仕えたのちは、宝暦十年(1760)研究に没頭し隠居した。真淵は「万葉集」を研究し、万葉風の和歌を復興しました。また、「古事記」「万葉集」や祝詞(のりと)の研究を中心に古代精神、すなわち古道を説き明かす国学で、春満の古道のほか荻生徂徠の古文辞学や老荘思想の強い影響がみられる。歌の注釈書である「万葉集」思想を語る「国意考」枕詞の研究書「冠辞考」など真淵の著述は、語学・古典研究・歌学・思想・歌文集・雑録など87部309巻もあります。

宝暦十三年(1769)真淵が伊勢参宮の途中、松坂の宿に本居宣長が訪れて入門し以後絶えず文通で真淵の教えを受けた。生涯に一度だけの対面だったが、真淵の門人となり、その後は手紙のやり取りで教えを受けた。門人も本居宣長はじめ優秀な門人を多数養成した。享年73歳江戸で亡くなる。

*江戸中期、どんな環境が揃えば、学を積む事ができたのだろうか?当時にしてみたら、田舎遠州から江戸へ上京するとは、どれほどの困難やハードルがあったのだろうか?今から、300年も前に、教養を追求する事とは。。。郷土の尊敬できる先輩だなぁ~。



姓由来(家康)&江戸時代弓術日置流  リンク先

2007年8月16日木曜日

◇◇明治維新~昭和初期◇◇

----- 以後、詳細トピックス(苗字は、都合上、555置換え) -----
黒字   =インターネット記事のコピー主体
赤字   =トピックス(偉業)
青字   =555感想コメント


555家住宅主屋
静岡県浜松市天王町759-1.平成17年国有形重要文化財指定.登録番号=22-0099.昭和12年施工.木造2階

*参考までに、僕の実家ではないですよ。直系御主人が住まわれている主屋です。家系を400年たどれば、実家とも言えますが、まぁ、近所ですけどね。実家から北へ走って20秒くらい? 僕が幼少の頃は、広い敷地で、庭にある大きな木にブランコぶら下げたりして遊んだなぁ~。夜には、フクロウとか来て鳴いてるくらいの大きな敷地だったんだけど、でも、30年も経つと敷地事体も切り売りされたり、相続税とかなんかで、30年前の面影はないけど、後世に残せたらいいな。




555茂清(梅七郎) 
直系11代 与進小学校の前進下堀校を創設する(明治6年)。早くから教育に関心を持ち、慶応元年に吾憂社を郷学校として興し、明治元年に四教館と改称。福沢諭吉の教育思想を取り入れ、学問のすすめなど進歩的な教科書を採用し、あたらしい考え方を打ち出した。明治5年に学区制が取り入れられ、全員が学校教育を受けるよう奨励がなされると、梅七郎は先頭に立って、学校建設資金の寄付を仰ぎ、天王大歳神社の境内の一部を校地とし、西洋風の目を見張る校舎を建て、下堀校を創立した。

下堀校は、明治23年に与進尋常小学校と改称されるが、その「与進」の出典は論語の「勉学を志す子を、なぜ、放っておくことができようか、皆で、学ぼう」に由来しており、この命名者は、555梅七郎の長男兼三の師・漢学者で元吉田藩の小野湖山だと伝えられている。

*実祖父は、僕が高校3年生の時に他界しているが、よく祖父からは、下堀小学校は、それはそれは立派で、遠州地方で、あの当時、あれだけの西洋風の建物はなかったと自慢していた。確かに、後にこのブログで紹介する昭和初期の有名建築家・中村さんも、建築家を目指した理由として下堀小学校を挙げている。祖父は、その小学校を卒業している。時代は変わり、実父も、そして、僕もそこで初等教育を受けている。与進小学校、不滅だ!



555謙三(1850-1913)
直系12代 今 の静岡銀行の源流にあたる浜松の資産銀行(後に西遠銀行と合併し遠州銀行になり、昭和18年、一県一行主義の掛け声の元、静岡の三十五銀行と合併し、今の静岡銀行となった)などを創設した銀行家だが、明治維新の際には遠州報国隊に参加し、函館戦争や西南戦争にも経理担当として従軍している。しかし家督を継ぐためにやむをえず帰郷し、郷里に銀行、紡績会社、倉庫会社など多数の会社を興した、いわば当時の産業報国思想を実践した郷土の立志伝中の人物である。謙三は上京後、慶應義塾や大学南校(帝国大学の前身)で啓蒙思想をまなび、一時555家の家督を弟の平八郎に譲ってまで中央での活躍を志したが、家の反対にあう。東京へ行ったまま、なかなか帰らない謙三に対して、父梅七郎は掛川の報徳社の岡田良一郎(1839-1915)に説得を頼み、岡田は長文の書状を認め、分度(分相応の身の処し方)などの報徳の教えを引いて説得している。それが功を奏したか、結局、謙三は数年後に家督を継ぎ、銀行家、実業家、地方政治家(静岡県議会議員、浜名・長上・敷知郡長)として郷里の発展に貢献する道を全うする。




555平八郎 兼三の実弟
弟の平八郎は謙三の帰郷後、555家の家督を謙三に戻し分家したが、のちに浜松町長、浜松市長(3代目)をつとめているので、兄弟が共に地方政治と経済に貢献したことになる。


555 栄 兼三の実姉
掛川の岡田良一郎に嫁ぎ、長男良平(京大総長、文部大臣)、次男一木喜徳郎(内務大臣、文部大臣、枢密院議長)、三男純平(後に555家へ養子となり直系13代継承)を儲けた。掛川岡田家は、後にも述べるが、大日本報徳社(二宮尊徳の教え)を普及する事に尽くされた家柄。



555純平(1872-1942)
謙三氏の養子 直系13代
父親謙三が「青雲の志」をもって憧れた日本の「中央」における「立身出世」「産業報国」の夢は自分たちの代には叶わなかったが、つぎの純平、與資平(中村家子孫-建築家の道を進む。天王町出身)の世代に受け継がれ、海を越えた大陸や東京、静岡県などで銀行と建築の近代化という形で実現したともいえる。当時は役所や会社、銀行が立派な西洋建築を有することは今とは比べ物にならないほど大きな意味を持っていた時代である。そのためか、純平が謙三の名をとって名付けたという三男の555謙三郎は帝大を出て建築家になり、中村與資平の次男兼二は早稲田大学で建築を学び後継者として期待された。

純平は父親謙三の姉栄子の嫁ぎ先である掛川の岡田家の当主岡田良一郎(1839-1915)の三男で、11歳で555家の養子になっているが、その後、掛川の冀北学舎(現掛川西高の前身)、東京帝大経済学部を出て第一銀行に入り、京城支店支配人、本店監査役、静岡銀行の前身の一つである遠州銀行取締役などを務めている。

純平は第一銀行が朝鮮との関係を深めるのにともない、現地での建築需要が高まると考え、協力を得るために、同郷の中村に建築家への転向を勧めたのであろう。建築を学ぶために東京へ移ったのは、当時京都帝大にはまだ建築学科が無かったからであり、第一銀行本店の建築設計で関係の深い辰野金吾が主任教授として在任していた東京帝大に進んだのも、純平らの助言に従ったと考えられる。

中村は東京帝大建築学科への進学後、純平の妻いつ(田代逸)の妹きし(田代岸)と結婚し、両家は姻戚関係になった。田代家は旧天竜市(旧二俣町)で代々庄屋をつとめ、天竜川流域で回漕業(回船問屋)を営んだ旧家で、当主の田代嘉平次(1842-1916)は、初代二俣町長をつとめた人物である。その長男の英作(1864-1936)も二俣町長をつとめたあと、静岡の三十五銀行や朝鮮の漢城銀行の支配人をつとめるなど、中村の建築活動をめぐる人脈といえる。

純平は三男謙三郎の手記によれば、日露戦争(1904-5年)当時、銀行団の一員として軍に徴用され、軍資金を中国東北部の満洲の最前線に届けるなどしており、外地の情勢に明るかったと思われる。この時、純平は父謙三が明治維新の際夢見た活躍の舞台の再来を感じ取っていたのではないだろうか。具体的には第一銀行の支店網の構築には信頼できる建築家の協力が不可欠であり、当然中村與資平の名前も頭に浮かんでいたはずである。純平は與資平が帝大を卒業し、辰野葛西事務所に入った翌年の1906年に第一銀行の京城支店副支配人に就任し、渋沢栄一頭取の訪韓の際には韓国総支店建設予定地の視察にも同行している。中村與資平が下見のため韓国に初めて渡ったのはこの翌年の1907年の秋である。

純平は第一銀行韓国総支店(後の朝鮮銀行本店)新設工事を事務長として、中村與資平は工務長として、二人三脚で完成させ、朝鮮半島での発展の足場を固めた。また同時期に5年がかりで行われた浜松の謙三邸母屋新築の際には中村與資平が設計を行っている。完成前に亡くなったため謙三自身は住むことがなかったこの和風豪邸の設計をまだ駆け出しといってよい與資平に任せたことは、謙三の期待の表れであり、與資平にとっても貴重な経験を積むよい機会になったはずである。なおこの母屋は戦後の1952年に與資平が顧問をつとめた相坂建築事務所による実測調査の後、旧天竜市の宗建寺に本堂として移築され現存している。

一方、純平の実家である岡田家は掛川の大日本報徳社創設者の家系として知られ、謙三の姉栄子が嫁いだ岡田良一郎は大日本報徳社社長のほか、衆議院議員、日本初の信用組合である掛川信用組合組合長、資産銀行取締役などをつとめた人物で、純平の二人の実兄、岡田良平と一木喜徳郎は共に東京帝大を卒業し、それぞれ文部大臣宮内大臣などを歴任した。報徳社は二宮尊徳(金次郎)の報徳思想を実践する社会団体で、その思想の中核は「至誠、勤倹、分度、推譲」で表わされるという。つまり、「まじめに働き、倹約して貯金をし、分をわきまえ、社会にためにつかう」というもので、明治、大正期に静岡県、中でも遠州地方で「遠州報徳運動」として大いに発展し、単なる道徳教育にとどまらず、産業、経済、金融などの発展に大きな影響を与えた。その具体的な影響として静岡県では一時は村ごとに中小の銀行が乱立し「銀行王国」ともいわれた。

純平と與資平は報徳運動とは直接の関係はないが、555家と岡田家の中央と静岡県における人脈は與資平の帰国後の建築活動に大いに役立ったと思われ、得意の銀行以外にも、官庁や学校、病院などの公共的建築を受注したほか、朝鮮の李王家関係の建物や個人の邸宅なども数多く設計した。

純平は朝鮮銀行発足後日本に戻り、第一銀行調査部長、常任監査役などをつとめたほか、東京製綱東洋生命などおおくの会社の役員をつとめた。そして1938年(昭和13年)に遠州銀行の取締役を辞し、三男謙三郎が設計した鎌倉材木座の家で晩年をすごしたあと、中村與資平が設計した母屋と謙三郎の設計した離れ(国登録文化財)のある浜松市天王町の家で昭和17年に亡くなっている

與資平自身、自伝に「自分が商売に全然素人なため」と書いているが、純平は中村與資平の建築活動に対して、言わばプロデューサー的な役割を果たしたと考えられる。中村與資平が事務所を閉鎖したのは昭和19年だが、昭和14年以降は実質的に建築家としての活動は停止しているので、中村與資平の建築活動は純平の経済活動とほぼ軌を一にしたといえる。

*あの日本資本主義の父・渋沢栄一のかばんを持って、韓国を訪問した先代は、彼から何を聞いたのだろうか?渋沢は、15代将軍徳川慶喜の命で、パリ万国博覧会に出席している。彼から、「この建物は、パリっぽいねぇ~」っとでも言われたか?しかし、歴史は、非常に複雑なのは、ソウルへの銀行建設・進出は、後の1910年-韓国併合への足固めとも言える。誰もが、歴史を振り返った時に、韓国併合、その後の大東亜共栄圏構想は、駄目という。僕も、駄目だと思う。考えさせられるシーンだ。

*今回の自由研究において、実祖母(大正2年(1913年)生まれ、現93歳)に電話で当時の様子をヒアリングした。純平さんと会って、会話した事あるそうだ。でも、当時は、女中さんが5人いて、その女中さん(彼女達は、家門にある部屋に住込)と事を済ますことが多かったそうだが、純平さんは、背丈は大きくはないが、非常に口数の少ない、静かな、でも、見つめる視線は優しい、カッコいい人だったそうだ。「・・・の妻か?どうした?なにかあったか?」ぐらいの会話であったそうだが、これって、すごい事だと思う。 場を共有した事だけで、既に、すごい。実は、今の555実家の土地も、祖母が祖父と結婚した時に、ボーナスとして純平さんの土地を分けてもらった事に始まるわけで、無呼吸で20秒全力疾走できるってことは、広い敷地だったんだろうね。

2007年8月15日水曜日

◇◇昭和全盛期◇◇

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555初雄 純平の長男
英国エジンバラ大学卒、宮内省下総御料牧場(三里塚)。 はじめは、御料牧場ってなんだ?って思って調べてみたら、面白かった。明治初期に、日本の牧羊場、牛馬畜改良の為の施設で、昭和に入り馬の繁殖等で、英国よりサラブレットを輸入したりと、日本の牧畜業の先駆け的施設。大久保利通発案。 最終的には、内務省から農務省管轄に移されるが、馬だけでなく牛乳、肉加工の研究所的位置付けかな?競馬で大損した事のある僕としては、第1回東京優駿大競走の優勝馬ワカタカ、三冠馬セントライト(1938-65)は、この御料牧場出身。

想像するに、初雄氏は、エジンバラ育ちの堪能な英語を駆使して、サラブレッドの輸入、当時の家畜先進国からの講師の対応とかしてたのかなぁ?まぁ、セントライトとは、時期的にもかぶるだろうし、触ったんだろうなあ。。。後に、この御料牧場は、1969年に成田空港建設敷地の一部となり閉鎖されている。

*晩年の初雄氏は、長男といて、浜松市天王町主屋にて暮らす事となる。僕の実家とも御近所ですので、その当時の様子を祖母に聞いてみると、お月見とかで、近所の子供達を招いて、遊戯会みたいな催しを提供し、祖母&実父は、その席に参加している。実父は、幼いながらに、「月がでたぁ~でたぁ~♪」って合唱したはいいけど、音痴の癖して、声が大きかったらしく、母親として赤面したそうだ。祖母は、本人には、言えないけどね・・・って言うけど、今となっては、祖母93歳、実父68歳だから、そろそろカミングアウトしてもいいのでは?まぁ、実父は、400年祭記念撮影でも最前列キープするツワモノだから、度胸はあるわな。

*初雄さんは、晩年、浜松の自宅にて過ごす。私が幼少の時、彼の葬儀は、浜松市天王町の正家にて執り行われました。僕は、幼稚園生だったんじゃないかな?って思う。霊柩車にグレードはないと思うが、綺麗で立派な霊柩車が僕の前を通り過ぎていった。晩御飯を準備していた祖母にすぐに、「霊柩車を見たよ!」って報告したところ、祖母は、「あの人は、立派な人なんだよ。東京に長くいたけど、頭がいいんだよ!」って話してくれた祖母。初雄さんが、僕の1メートル先を通り過ぎていった。



555道雄(1903-84)  純平の次男、初雄の弟、謙三郎の兄
銀行員純平の息子として大阪に生まれる。父の転勤に伴い、1907年から1913年まで京城(現在のソウル)で過ごす。 東京府立第四中学校(現在の東京都戸山高等学校)から第一高等学校を経て、1926年に東京帝国大学文学部独文科卒業。ドイツ語講師として第一高等学校に勤務。1928年から文部省に派遣されてベルリンとパリに留学。1931年に帰国し、第一高等学校の教授となる。戦後、第一高等学校が東京大学教養学部に改組されてからも教授を続け、1951年に退官してからは上智大学などの講師を歴任した。

訳書にニーチェ『ツァラトゥストラ』やヨハンナ・シュペリ『アルプスの少女ハイジ』など。日本におけるシェヴァイツァーの紹介者としても知られる。小説家としては、一高教官として多くの教え子を戦場に送り出した体験に基づき、1947年に『ビルマの竪琴』を発表。

評論家としては、1940年、日独伊三国同盟締結に際して『ドイツ、新しき中世?』を発表し、全体主義の台頭に警鐘を鳴らした。戦後は、1950年代から、当時の日本の盲目的な社会主義賛美の風潮に抗してスターリズムへの疑念を表明。中道保守の立場から、左右双方の全体主義に警鐘を鳴らし続けた。1983年、日本芸術院会員。著作集全8巻がある。

*左右双方の全体主義に警告をならす?これは、僕が目指す、Brigde的役割では?また、ビルマの竪琴は知ってたけど、アルプスの少女ハイジは、熱狂したし、国費留学された才能、第二次世界大戦前のあの日本において全体主義への警告を発せたその理念を尊敬します。



ビルマの竪琴と中村兼二の関係
中村兼二(1916-1944)は早稲田大学で卒業時に小野梓賞を受賞するなど将来を嘱望されていたが、第二次世界大戦で応召し、昭和19年にビルマで29歳で戦死している。このことは中村與資平が戦後、相坂建築事務所の顧問に就任したものの、自らは建築活動を再開しなかった最大の原因であろう。なお中村兼二の名は555純平の次男555道雄(1903-84)の小説「ビルマの竪琴」のあとがきに、執筆の動機となった身近な戦没者の一人として記されている。また中村與資平は静岡県教育委員時代の1956(昭和31)年に郷里天王町の中村家の墓地に武島羽衣の和歌を刻んだ追悼の石碑を建立した。

*555家の過去功績をさかのぼる時に、中村家との建築ビジネスを介したつながりが深く、切っても切る事ができない関係にある。名門・中村家の直系実家は、天王町東にありましたが、ここ10年間で、悲しい事に取り壊されてしました。私の実家から東に無呼吸ダッシュで5分ほどの距離にありました。小学生の時は、爆竹投げて遊んでましたが、とてつもなく広い敷地でしたので、問題はありませんでした。この中村さんは、建築家として数々の偉業を成し遂げていますので、最末尾にネット記事を貼り付けます。郷土の尊敬できる先輩の1人です。



555謙三郎(1908-86) 純平の三男
静岡県浜松市出身。1932(S7)東京帝国大学工学部卒。同年大蔵省営繕管財局、'46建設省建築研究所、'55同所長。 '61退職、東京都立大教授。'63鹿島建設技術研究所4代目所長、'64退職。 1966(S41)所内に電子計算センターを新設し、日本初の超高層「霞が関ビル」の建設に大きな貢献を果たした。 '68日本女子大教授、'71(社)建築研究振興協会会長。後、名誉会長。 その間'52日本建築学会賞(「木構造の研究」)、'53日本建築学会賞(「東京地盤図の作成」)、'78勲二等瑞宝章。謙三郎は建築構造学の重鎮として活躍した。

謙三郎が日本女子大教授の時に、元浜北市長吉田氏の娘・清子が大学の教え子でもあり、同郷のつながりで、教授宅を訪問しており、その際、随筆集2冊を頂いてきている。清子氏曰く、美智子妃殿下が娘時代、555家の「若い人たちの教養の会」に参加されていた事が綴られており、美智子様との出会い、お人なり、エピソードが書かれている。



555 文子 純平の娘、謙三郎・道雄の妹
3兄弟大臣といわれた(船田中、船田享二、藤枝良助)船田家の船田享二と結婚元主婦連副会長を務める。参考に、元NHKアナウンサーの畑恵との政界失楽園(今で言うなら、愛の流刑地?)の主人公・船田元は、船田中の直孫にあたる。また、船田中の実父は、あの江川・作新学院(栃木)の設立者。主婦連合会は、1948年、不良マッチ退治主婦大会を契機に、しゃもじ&エプロンをシンボルに不当表示商品への抗議、物価問題、各種訴訟などの消費者活動の先頭として活動。

*555純平の3兄妹は、1980年代半ばに、この世を去っているが、長上(浜松市天王町)が日本に誇る3つの顔と言っても良いのではないでしょうか?これは、すごく誇りだし、僕も生きていた時代だから、手が届きそうで、身近で、でも、すごく偉大で・・・。

2007年8月14日火曜日

◇◇555家&中村家(天王町)◇◇

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555家&中村家との関係 (幼なじみ)
555家の過去功績をさかのぼる時に、中村家との建築ビジネスを介したつながりが深く、切っても切る事ができない関係にある。名門・中村家の直系実家は、浜松市天王町東にありましたが、ここ10年間で、悲しい事に取り壊されてしました。私の実家から東に無呼吸ダッシュで5分ほどの距離にありました。小学生の時は、爆竹投げて遊んでましたが、とてつもなく広い敷地でしたので、問題はありませんでした。この中村さんは、建築家として数々の偉業を成し遂げていますので、下記にネット記事を貼り付けます。郷土の尊敬できる先輩の1人です。

中村與資平の活躍の背景を考えるにあたって、まず触れなければならないのは同郷の銀行家・実業家であ555謙三(1850-1913)とその養嗣子である555純平(1872-1942)の存在である。555家は中村家と同じく今の浜松市東区天王町の旧家で、古くから親交があったという。

中村の自伝には、三高進学の当初は電気技師志望だったが、「建築家のほうが自営もでき、身の自由もきく」と聞き、専門を変えたと記されている。自伝には誰から聞いたとは書かれてはいないが、中村與資平をめぐる状況を考えれば、中央の事情に詳しい555謙三や、8歳年上で兄弟のように親しい関係にあり、帝大を出て活躍をはじめた555純平らの助言があったのではないだろうか。

與資平自身、自伝に「自分が商売に全然素人なため」と書いているが、555純平は中村與資平の建築活動に対して、言わばプロデューサー的な役割を果たしたと考えられる。中村與資平が事務所を閉鎖したのは昭和19年だが、昭和14年以降は実質的に建築家としての活動は停止しているので、中村與資平の建築活動は555純平の経済活動とほぼ軌を一にしたといえる。

中村は東京帝大建築学科への進学後、555純平の妻いつ(田代逸)の妹きし(田代岸)と結婚し、両家は姻戚関係になった。田代家は旧天竜市(旧二俣町)で代々庄屋をつとめ、天竜川流域で回漕業(回船問屋)を営んだ旧家で、当主の田代嘉平次(1842-1916)は初代二俣町長をつとめた人物である。その長男の英作(1864-1936)も二俣町長をつとめたあと、静岡の三十五銀行や朝鮮の漢城銀行の支配人をつとめるなど、中村の建築活動をめぐる人脈といえる。






中村與資平 (中村兼二の父)
韓国の首都ソウルの代表的西洋建築である韓国銀行本店(韓国の中央銀行=旧朝鮮銀行本店)、あるいは観光客でにぎわう徳寿宮の国立現代美術館別館(旧李王家美術館)、また中国遼寧省大連市の中心にある中山広場のロータリーに面してたつ中国工商銀行(旧朝鮮銀行大連支店)など、今も堂々とした風格を見せるこれらの建物は20世紀のはじめから1930年代にかけて、静岡県浜松市出身の建築家中村與資平によって設計されたものである。


中村による作品はこれらにとどまらず、韓国、北朝鮮、中国東北部、そして日本国内におよそ200件を数えている。建築後、すでに70年から100年近くを経過した今では、すでに存在しないものも多いが、かろうじて戦火や再開発の波を逃れ、役所や学校、銀行、病院などの現役の建物として、また国や地方の文化遺産として現存しているものも少なくない。

一方、日本国内には豊橋市公会堂、静岡市役所、静岡県庁本館、三十五銀行本店(静岡銀行本店)、李王家大磯別邸(神奈川県大磯町、通称滄浪閣)、大阪の済生会中津病院本館(大阪市北区)、長野の樋口病院(長野県小諸市・小諸病院)などのほか、出身地の浜松市にも遠州銀行本店(静岡銀行浜松営業部本館)と浜松銀行集会所(旧浜松銀行協会。2004年に浜松市に譲渡)が残っている。また贅を凝らした和風建築だった浜松市東区天王町の555邸主屋は戦後、旧天竜市(浜松市天竜区)の宗建寺に移築されている。

中村與資平は明治時代の末期に建築設計を始めた建築家としてはめずらしく、今の国別で言えば4ヶ国にわたって民間の建築家として活躍し、多数の作品を残したが、戦後は建築家としては活動せず、公選の静岡県教育委員として晩年を送ったため、建築家としては長く半ば忘れられた存在だった。ようやくその再評価がなされるのは近代建築の再評価が始まった1980年代以降のことで、その間にも建物の解体撤去は進み、朝鮮銀行大阪支店、浜松市公会堂、遠州電気鉄道旭町駅(遠州鉄道新浜松駅)など中村與資平の主要作品も80年代までに解体撤去された。

しかし近年、静岡市役所や豊橋市公会堂が文化庁による登録文化財指定などを契機に本格的に修復され、完成当初の風格を取り戻したほか、大阪の済生会中津病院本館は解体後、2002年春、同じ場所に再建され、病院のシンボルだった美しいドーム建築がよみがえっている。また韓国、中国に現存する中村作品の多くが国または地方の文化財として指定・登録され、保存・活用の措置が講じられている。

中村與資平は1880年(明治13年)に静岡県長上郡天王新田、今の浜松市東区天王町の農家に父貞一郎と母せきの長男として生まれた。農家といっても江戸時代からの広大な農地をかかえる大地主であり、当主は代々「與左衛門」を名乗り、農地を管理していた。自伝によれば與資平が地元の下堀学校(今の浜松市立与進小学校の前身)、浜松高等小学校(今の市立元城小学校)、静岡県浜松尋常中学校(今の県立浜松北高等学校)を卒業したあと、父貞一郎は長男である與資平に対して、師範学校へ進み、地元の学校の教師になるよう希望していたが、母親のとりなしで旧制高校への進学を認めたという。後に多くの後進の建築家を育て、大学でも教師としても活躍したり、県教育委員になったりしたことを考えると、與資平の教師・教育者としての資質を父親は早くから見抜いていたともいえる。

與資平は合格の安全を見込んで京都の第三高等学校(現京大)に進むが、在学中に志望学科を電気から建築に変更する。電気を志望したのは当時水力発電が盛んになってきたため、近い将来浜松にも天竜川の水力を使った電力会社ができると考えたからである。実際に浜松に小さな電力会社ができたのは1885年(明治28年)、與資平が15歳の頃だが、本格的な電力会社は1902年(明治35年)創立の浜松電灯株式会社(火力発電)まで待たなければならなかった。同社には後述する同村の銀行家555謙三(1850-1913)も役員に名を連ねていた。同じ年(1902年)に三高を卒業した與資平はちょうど間に合ったわけだが、あえて専攻を建築に変更した理由について中村は建築家は自営ができることをあげているだけで、特に建築家でなければならない理由については何も書いてはいない。自伝からうかがわれる建築への関心は地元の下堀学校が当時としては珍しい「洋風建物」であったことを記しているだけである。

中村與資平は東京帝国大学工学部建築学科に進み3年間学んだあと、1905年(明治38年)、帝大大学院に籍を置きながら、入学当時、建築学科主任教授であった辰野金吾(1854-1919)が官を辞し、後輩の葛西萬司と1903年(明治36年)に開設した民間の建築設計事務所「辰野葛西事務所」に「奉職」する。明治38年卒業の同期生は11人で、その内2人が朝鮮総督府の技師になり、1人が満鉄に就職している。

第一銀行は1902年から朝鮮で頭取の渋沢栄一の肖像をのせた紙幣、第一銀行券を発行するなど中央銀行的な地位にあった有力銀行である。中村が設計を任されたのは、同郷の銀行家555謙三の養子である555純平(1872-1942)が同銀行に勤めていたことが関係している。帝大経済学部をでた555純平は当時、渋沢の懐刀あるいは知恵袋といっても良い存在だったようで、中村が京城支店の設計を任される前年には渋沢に同行して京城の支店予定地を下見に訪れている。さらにその3年前には朝鮮を視察した555純平が朝鮮情勢について渋沢に報告をしていることが渋沢の日記に書かれている。こうして開通して間もない東海道本線を上り下りする555純平から最新の情勢を中村與資平が聞いていたであろうことは想像に難くない。

ちなみに辰野葛西事務所は1906(明治39年)年12月に東京中央停車場(東京駅)の設計を開始しているので、この設計にも中村が一時加わっていた可能性があるという。またこの時期は日露戦争の勝利をうけて、関西から西日本方面の建築需要が増大しており、辰野は大阪に辰野片岡事務所を開設している。

中村は期待に応えて建築家としての将来をかけて設計に励み、1907年(明治40年)の秋、下見を兼ねて韓国に渡り、帰国後設計を完成させ、辰野に認められる。そして翌年、第一銀行臨時建築部工務長として韓国に赴任し、施工監理に当たった。基礎工事の際、中村は下請けによる施工の不備を見つけ、即座に工事をとめさせて改善させるなど、施工監理者としても才能を発揮したようで、その後工事は順調に進み、1909年7月11日の定礎式には朝鮮統監府の初代統監を務めた伊藤博文元首相(当時は枢密院議長)が出席し、定礎の文字を揮毫している。この定礎の文字は現存している。

第一銀行京城支店として建設を始めた石造2階建ての大建築は、銀行の機構改革で昇格し韓国総支店に、さらに1909年第一銀行から切り離されて韓国銀行となり、最終的に日韓併合により1912年(明治45年)1月朝鮮の中央銀行として朝鮮銀行本店となって完成した。これに伴い、第一銀行は京城支店と釜山支店を残して撤収した。

海外で実績を積んだ中村は、次の目標を米欧での建築事情視察の成果を持って日本で活躍することに定める。朝鮮と中国東北部で実績を積んだ中村があえて日本に転進した背景としては、1919年に起こった朝鮮の三一運動、中国の五四運動以降の社会情勢の不安、1919年3月25日に恩師辰野金吾が亡くなったこと、朝鮮銀行の支店建築がひと段落をつけたこと、静岡県内でもコンクリート建築の需要が見込めるようになったこと、郷里の両親の高齢化などが考えられる。さらに米欧旅行の前年の1920年12月に京城の事務所が火災で焼失したことも決断する契機になったと考えられる。また朝鮮銀行本店の建築で苦労を共にした義兄の555純平がすでに帰国して第一銀行本店にもどり、同時に郷里の遠州銀行などの要職を兼任していたことも大きな理由であろう。中村與資平は約1年間の米欧旅行のあと、東京に設計事務所と工務部を設け、折からの関東大震災後の建築需要を取り込み、順調に実績を伸ばした。そして、その後の10数年間に設計、施工した作品は国内では静岡と東京を中心に北海道から九州にまで及び、朝鮮でもいくつかの作品を残している。

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2007年8月13日月曜日

Go to the USA


今日(8月13日)から、しばらく、アメリカに行ってきます。2ヶ月前には、チケット購入していた割には、卒論とかなんだかで、全然、今回のアメリカ旅行の事前勉強ができなかった。毎回、海外旅行は、こんな調子で臨んで、行きの飛行機の中で浜松商業並みの集中力で訪問地の知識を習得努力するんだけど、今回は、いっぱい関係ない書籍を持ち込むので、そんなの飛行機の中で読んでたら観光地の勉強ができないよ。まぁ、どうにかなるだろうけど・・・。

そんな事で、僕って、今までに何回アメリカに行ったんだろうかと、ちょっと、纏める。アメリカは、嫌いだ嫌いだって言いながら結構、訪問しているような気がする。


0)86年夏休み Anchorage(ロンドン行く途中、入国してないから未カウント)
1)95年正月 SFO→LOS→SanDiego→Mexicoティファナ
2)96年6月    SFO→Oregon(結婚式参加)
3)00年正月 Atlanta→NY→Philadelphia(千年際)
4)04年10月   Hawai
5)05年~06年  Georgia/Atlanta (&Chicago)
6)07年夏休み Chicago→St.Louis→Kansus

10年間で、これだけ行けば、頑張ったほうだよね。よく行ったし、身近な人もアメリカに住んでるし、半年間住んだし、そこから見えてくるアメリカは、アメリカっていう国は嫌いだけど、アメリカ人は好きなんだよね。日本人とは違うって感じがする。アメリカ人の好きなところは、自分の事とかあまり気にせず視野が広いってイメージがする。それに対し、日本人ってのは、自分のこと見つめすぎって感じで、視野が狭い感じがするよね。例えを挙げるならば、米人はTシャツ&ジーンズでお構いなしだけど、人権問題だとか、ホモ解禁でもいいんだけど、自分と関係ないことでも倫理観に基づいてデモとかするあたり格好良いよね。それに対し、日本人ってのは所持品とかに異様に拘るし、服のセンスも抜群。しかし、世相に対しては、無関心だし、日本って平和な国なんだろうね。どの国も一長一短あるもので、僕は、アメリカ人のSmileってのに抵抗ある一方、日本人の絆ってのは誇るべき事だと思う。要するに、良いところも悪いところも、それぞれ持ってるって事です。


今回の旅行の目標
①Krispy Doughnutsを食べてくるぞ!
新宿南口を散歩した時に、Krispy Kreme Doughnutsがオープンして半年経過しているにも関らず、90分待ちの行列だった。新宿から新橋に帰る山手線の中で、若いサラリーマンカップルの男女が、それぞれ30個は入りそうな大きな箱に、Krispyドーナッツを買い込んでいた。あれって、会社の同僚や、友達に分けてあげるんだろうなぁ~って思いながら、「90分待ち」の価値ってのを考えた。今回、シカゴに、どうやら2店舗ぐらいあると友人から聞いた。絶対食べてくるんだけど、往復チケット考慮すると、どっちが徳か?絶対、新宿なんだけど、自分は、シカゴだと信じる。なぜなら、本場だから・・・(参考に発祥地は、ノースキャロナイナらしいが・・・笑)

②ベッカムのアメリカ人気度合いを肌で感じてくる!
彼は、MLSギャラクシーってな西海岸LAチームだけど、中西部での人気をヒアリングしてくるぞ!その熱気を肌で感じたい。僕が、2004年に家族でハワイ行った時、長男は10ヶ月で、時差ボケで昼間はカートに乗って寝てるだけなんだけど、直射日光顔面ガンガンで、あれは、本当に可哀相だった。そのハワイの出来事として、MLBワールドシリーズに向けて、ヤンキースxレッドソックスがアメリカンリーグチャンピョンシップで因縁の対決をしていた。ボストンは、初戦をシリングで落として、2戦目もあのマルティネスで落として、知らない間に、第3戦も負けて3連敗の土壇場。本当に、バンビーノ!だよ。究極は第4戦も9回裏まで3-4で負けていながら、ギリギリ同点に追いつき、オルティズが延長戦で、ライトスタンドにサヨナラアーチ打った夜、その夜に、僕達は、ハワイのホテル中庭レストランでビール飲みながら、そのアーチをテレビ観戦していた。あのホテルのテラスの盛り上がりが異常だったし、あれことが本場の凄さだと思う。その後、レッドソックスは、血染めのシリングにより、100年以上歴史あるMLBで初となる、松山商業しかできないと思っていた(土壇場という意味)、3連敗からの4連勝にてワールドシリーズへ駒を進め、86年ぶりのリングを手に入れる。それをテレビといえども、アメリカで見れたことが嬉しい。松坂は居なかったけど、松井はいた。あの「バンビーノの呪い」を解く過程を見れたんだよ!絶対、オルディズだよ。あのライトへのホームランは、パワー感じた。 だから、ベッカム元年を生で見る価値あるのです。(テレビ観戦だけど・・・笑)

③博士課程のOral Defense(口頭弁論)観戦
今回の旅行は、シカゴ→Shampaine→St.Louis→Kansuscityってな日程で、全工程をHertzレンタカーで繋ぎます。なぜ、イリノイ州の南部にあるShampaineかって言うと、とある女性がそこの大学でPhD(博士課程)をゲットするために勉強していて、この8月に卒業なんです。PhD取得するためには、最終難関として、博士論文を教授たちの前で披露し、質疑応答を受け、自分の考えをDefense(防御)して、説得させることができて、最後にやっと博士(Doctor)と認められる訳です。その儀式に日の丸国旗もって応援に行く訳です。その、とあるアメリカに住む女性は、この9月からKansuscityに移動し、助教授としての新しい人生のスタートを切るため、その門出を祝するためでもあります。専攻分野は、文化人類学(女性学)との事です。正直、訳が分からない分野です。ここ数年、この件で会話する事もありますが、会話していても何のことについて話しているのか、日本語でも見失いますし、理解しようと必死になると頭痛くなるので、いつも聞き逃しています。まぁ、Oral Defenseを応援に行く訳ですが、僕は自分が定年退職したら、どこかの大学でPh.D取りたいと思ってますので、30年後の自分の為に視察してこようと思っています。僕の志すPh.Dは、心理学(高校野球球児の極限における精神状況解析)、または、歴史学(アジア・世界から見る大東亜共栄圏思想)って感じかな。視察視察しさつ。僕の究極の夢は、老後、Ph.D取得して、自宅で学習塾を開くこと。授業料は決めず、趣味でやるから生徒が払いたい金額でWelcome. できれば受験には関係の無い555恋愛論、男女関係進化論、歴史学、高校野球学(その頃には学問になっていると信じる)なんかを将棋とか遣りながら、若者と交流したいね。(オチとしては、オジイちゃん、ポリデント!って若者から言われるんだろうね・・・笑)


なんか、以上3つの馬鹿げた夢だけど、夢見るってのもHappyな事だよね。夢見れるだけで凄いことだよ。Iraqの子供達は、現実のグロテスクに将来を見通せない。アフリカの子供は、毎日生きることで必死だし。30年後の自分を夢見れるってのは、素晴らしいことなんだろうね。

そろそろ、シカゴ行きユナイティッド9679便に乗る為に成田に向かいます。ANAとの共同運航便だから4桁フライト便は仕方ないけど、本当に毎回思うんだよね。JAL001便=サンフランシスコ→成田止まり、JAL003便=シカゴ→成田止まり。ANA001便=ワシントンDC→成田止まり。エアーフランス栄光のAF001便=NY→パリ、002便=パリ→NY、このエアフラは、めちゃくちゃ格好良い。そこでそこで、あのパンアメリカン航空のPA001便=西周り世界一周、要するに、NY→SFO→ホノルル→東京→上海→マニラ→バンコク→カルカッタ→イスタンブール→ロンドン→NYてなルート。東京→上海に乗っても、それは、栄光の001便な訳ね。002便=東周りの世界一周。このコンセプトは、エアフラよりも、更に格好良い。要するに、僕が、このテーマで言いたかった日本とアメリカの違い(視野が広いor狭い)は、ここにも現われているね。結局、地球上の空は、アメリカに牛耳られているって感じがするでしょ、001便をアメリカ発としているところが・・・。However、しかし、注目すべきは、大英帝国。BA001便は、ロンドン→ニューヨーク しかも Flight By コンコルド。どう?史上最強の帝国様には完敗だね。

さてと、「地球の歩き方シカゴ版」は、成田空港で購入する予定だけど、在庫なかったらどうしよう。どうにかなるか?

2007年8月12日日曜日

これがニッポンの夏!


暑いよねぇ~、本当に、暑くなってきたよねぇ~。太陽ガンガンだし、蝉の鳴き声が、絶対、心理的に暑さを増幅させる。地球温暖化とかって言われて久しいけど、これは暑い。そんな日本の夏を満喫するために、555にとって絶対不可欠要素である田舎に2泊3日で帰省する事とした。大東京でも夏は満喫できるけど、僕にとって絶対に欠かせないイベントに参加する為に帰省した。
花火大会って日本全国、今が旬よね。我が田舎でも全国に誇れる花火大会があります。袋井花火大会って言って、袋井の地名自体は無名な小さな街だけど、マスクメロン生産量に関しては全国一だし、夕張メロンほどのブランド力はないけど、今後、絶対に全国区になる品種だろうね。その袋井市が花火大会を主催。その規模が、全国一に入る花火量だろうね。また、全国花火師による花火コンテストも同時に開催しているから、新種の花火技術を満喫できる。今年の隅田川が30回記念大会っとあって2万発らしいが、袋井はここ10年間連続、3万発を2時間弱で爆発させている。長岡(3尺玉)には勝てないが、袋井の2尺玉(直系60cm玉)打上は格別だよね。僕的には、長岡(三尺玉&2日間で2万発)、富田林(PL12万発&ナイアガラだけで8,000発)、袋井が全国ベスト3で、次に、秋田大曲(人口4万人の街でありながら、観客75万人が一夜に集まる!)あたりがランクしてくるかなぁ~って勝手に評論家している。世間的に3大花火大会という場合、秋田大曲、茨城土浦(2万発)、新潟長岡らしいね。諏訪湖は、4万発やるらしいね。激戦だけど、確実に言える事は、花火大会は田舎ってことが約束事だね。がんば
れ、がんばる田舎!
第1位 新潟長岡   三尺玉の歓声だけで想像できる迫力さ
第2位 PL大会    ほとんど火事か爆発って感じ(ヤリスギ感アリアリ、ラスト8分映像
第3位 遠州袋井   至近距離ってのが最大の魅力(エレガントさ抜群)
第4位 秋田大曲   5分30秒以降は圧巻(75万人集客力は抜群、真円度なら一番)
欄外  Boston7/4  カメラのアングルがUSA、9分間の演出は凄い!アメリカっぽいよね
一回目の大ピンチ
僕は、この時期、日本に滞在している場合、確実と言っていいほど袋井花火を観覧している。一度、大ピンチの時があって、以前のブログ(VenusFortが語りかけるモノ)でも述べたように、夏休み真っ只中に元彼女さんよりサヨナラ言われた時も、袋井花火大会だけは行かねば!って焦って、起死回生的に高校3年生の時に仲良くしてくれていた女の子と行くことに成功した。予備校で遅くまで勉強していて、夜、一緒に帰ってくれた子で、18歳当時、恋愛感情はなかったけど、寒い冬の夜に、自転車で一緒に帰って、先にその子を家に送り、バイバイする時に、いつも貰っていたホッカイロが、凄く温かかったなぁ~って懐かしい。まぁ、起死回生で花火を見たときは、同窓会雰囲気で、花火自体を満喫できた。あれは、危なかったなぁ~って懐かしい。

二回目の大ピンチ
2回目に訪れた大ピンチは、昨年の袋井花火大会だったなぁ。MBAスクールに合格してたけど、8月末までに、TOEFL&GMATテストにて点数クリアーしなきゃならなかったから袋井花火どころの話ではなく、夏休み真っ只中だったけど、会社に行って、会議室でGMAT問題集を一日中セクセク解いてた。今、思うと、Lovely奥さんがお弁当作ってくれて、それをもって会社に行って、終日缶詰勉強。世間は、夏休み!なんだけど、人生掛けていたため、英語勉強に無心だった。朝、会社に行く時も、奥さんから、「今日は、袋井花火だけど、どうする?行けそう?」ってな質問に対し、「どうかなぁ~、最後のGMATテストまでに1週間切ってるからなぁ~。午後の出来具合次第だけど、まぁ、行けないものっと思っておいて!」って話して会社に向かった。あの時も太陽の光はガンガンだったし、外では蝉がミンミンだったけど、会議室の中だけは冷房ガンガンで耳栓しながら机に座ってた。

夜の20:00頃だったかなぁ?携帯に電話が掛かってきて、まぁ、携帯画面を見たら奥さんからだったんだけど、その電話にでると第一声が、「ぱぱぁ~、はなび、はなびぃ、いくぅ~?」って長男が電話掛けてきた。まぁ、奥さんのトリックだと思うけど、その声を聞いて、急に、花火に行きたくなって、「よおぉ~しぃ、いくかぁ!」って事で、奥さんに会社まで来てもらって、その足で袋井に向かった。到着した時には、もう、最後のスターマイン(まぁ、そのスターマインが15分くらい続くんだけど)くらいのタイミングだったけど、家族水入らずで、楽しい夏花火だったなぁ~って思い出す。ちょっと自己中心になり過ぎていたし、奥さんからの「ベスト尽くして、駄目だったとしても後悔しないように、好きにやればぁ!」って言ってくれたことに甘え、良いパパすること無視してた。

これが、これこそが、ニッポンの夏!
今年の8月11日(土)は、午前中に長男と二人で、仲良く手を繋ぎながら、浜松まで電車で出かけ、東映映画「仮面ライダー電王」見てきました。これも日本の夏のワンシーンだろうね。その後、冷やし中華を食べた。これも、日本の夏。午後は、疲れちゃって、帰宅して昼寝。いい夏だぁ、昼寝はニッポンの夏を加速させる。そして、夜は、袋井花火大会に皆で出かけた。息子達は浴衣着て、「バババ~ン!」って叫んでる。ほのぼのシーン。最後のスターマイン見ることなく、なぜなら、息子達、スヤスヤ寝始めちゃったし、渋滞するのも嫌だから、早めに帰路に着くこととなる。自宅について、車内でグッスリクピーの次男をキャリアーに移し、長男をグット抱き上げマンションへ。彼ら、汗ビッショリで浴衣とかビチョ濡れ。体が火照ってる長男を抱きながら、酸っぱいほど鼻にツーんっとくる汗臭さに頭フラフラしたその時、、まさにその時、その瞬間が、僕にとって今年一番のニッポンの夏でした。長男をギュッと抱きしめた。寝ていて抵抗しない彼を、強姦するように、キスしまくった。
今年一年、パパは単身赴任で自宅を不在にしていたし、ママが風邪気味の時は、いつも馬鹿で甘えん坊な長男も、必死にママを心配し、我が家で一番年上の男性として、彼なりに、「しっかりしなきゃ!ママを守らねば!」っとでも思ったか、僕が想像もつかないストレスを感じていただろうし、公園に行っても、他の友達はパパと遊んでたと思うけど、「なんで、僕のパパは、家に居ないのかなぁ?」って思っただろうし、そんな彼の寝顔を見て、ギュッとしてあげた。いい夏だね。これが、ニッポンの、最高の夏だぁ!


2007年8月11日土曜日

クラスター分析に挑戦!


実は、これ、1ヶ月前に原稿書いてあった訳なんだけど、卒論終え、PCファイル整理してたら当原稿発見。まぁ、そこそこ、気に入っている内容なので、今日、ここにアップします。

Harvardの教授.マイケルポーターは、ポジショニング戦略理論の第一人者ですが、実は、クラスター分析の第一人者でもある。最終学期の選択クラスに石倉副学長が教えるクラスター分析の授業がある。そもそもクラスターとは、ぶどうの房を意味する言葉で、あるエリア、ある地域、ある国を産業的に分析していくと、おのずとひとつの法則に辿りつくっという理論である。実は、僕は、その選択クラスを受講していないが、クラスメートから、面白いと授業の様子を頻度よく聞いているうちに、まぁまぁ、面白そうだなぁ~って同感するようになってきた。

例えば、静岡県浜松市。戦前から繊維工業とかが盛んで、戦時中は、軍需(航空機)産業と共に、産業化を果たす事となる。終戦後は、切磋琢磨、合併を繰り返す事で、バイクといったらスズキ、ホンダ。ピアノといったら、河合。テレビといったら浜松ホトニクスっと世界的企業が今も健在である。また、その大企業を囲うように周辺には、部品メーカーが集落を作り、いつしか、オートバイ、楽器の分野では、世界的な競争力を持つようになる。当然、当時の社長の舵取りが上手かった事、事業戦略がビンゴした事など、成功した理由は数多くあるが、ひとつの理由に、地理的密集要因が大きい事も言える。

ライバルメーカーが、狭い範囲に集うという事は、情報入手、部品調達、人材確保においては、有利に働く事が多い。一方、それ故に、情報露呈、人件費の高騰等のマイナス要因も同時に兼ねる事となる。日本には、浜松以外にも、東京都大田区、福井県鯖江市、愛知県豊田市等は、超有名なクラスター地域と言える。その狭い範囲内で、競争する事で、実は、世界に通用する企業へとなるのである。いわゆる、サッカーで言うところの静岡を制する者は、全国を制するみたいな。高校駅伝で言うところの兵庫を制する者は、全国を制するみたいな。

国レベルで考えたとき、ノルウェーをクラスターの視点から語ると新しい物が見えてくる。北欧の国で、人口的にも500万人弱と決して大国ではない。携帯電話の分野では、ノキア、エリクソン(スウェーデンだけど)っと世界シェアを独占する状況となっている。しかし、今日に至るまでに、ノルウェーには、数十との企業が乱立し、そこで、切磋琢磨、M&Aを繰り返すことで、また、政治政策も規制緩和方針を取ることで、最先端の技術開発拠点となる。そうなると、世界で一番エリートなエンジニアがノルウェーを目指す事になる。いわゆる、これが、クラスター解析であり、企業が成長し、成功する為には、それに適した(それは至って厳しい世界)地域へ本社を構え、そこで戦う事が、競争優位性をもたらす事に繋がる。っと言った考え。なるほどねぇ~。琵琶湖周辺で個人ウナギ養殖屋を営むよりも、あえて、浜名湖周辺でウナギ養殖を営むほうが、一見、競争が激しく苦労するが、その苦労が、最終的には、その企業の競争力となる。っと考えると簡単である。

以上までが、今日に至るまでの産業の歴史。さて、今後の、World is FLAT(平らな地球)になると、インターネットで情報は国境を越えて、民族の流出入も制限ができなくなり、企業は、更に、多国籍化へと進化していく。更に、その変化スピードは、極めて、早い。相当、早い。また、他国のニュースが日本の経済に簡単に影響を与えるように敏感になる。中東の石油は、皆がご承知だが、中国がウナギ輸出を制限する事で、土用の丑の日-蒲焼大フィーバー。更に深堀りすると、実は、フランスでウナギの稚魚が不作な影響を日本が被るようになる。

そのような環境下で、国家として、大きい事がBetterか?小さい事がBetterか?って話になる。結論から言うと、小さい方がBetterって事になる。典型なのが、シンガポール。証券取引所だけでなく、シンガポールは、先物派生商品も市場で扱い、取引額の規模を増やしながら、アジアの中で地位を築いてきている。今になって、東京証券取引所がSGPを視察している最中。本当に、笑えるのは、東京証券所が先物を扱う事は、金融庁と農水省の管轄違いで、調整を要する事となり、そんな事に時間を費やしていると、スピードに乗り遅れる事となる。航空便にしても、完全に、成田よりもシンガポールにアジアのハブを取られたよね。また、中南米のコスタリカ。僕を含め、素人には、コーヒー生産国か?っといったイメージしかないが、小国ながら、インターネット化に成功。中南米で唯一のインテルの集積回路工場の誘致に成功するまでに、地位を確立し始めている。日本もオロオロしていると、置いていかれちゃうね。

クラスター分析から何を学ぶか?
まぁ、個人的には、何も学んでいませんが、あえて自分を厳しい環境に置くってのも、クラスター視点から考えると、自分の競争力アップに繋がるって事になる。それは十分理解できる事だが、だからといって、あえて厳しい環境に身を置くのは、大変な事で、僕の場合、大学卒業して、外資系銀行なんかに、万が一就職できたとしても、即刻、リストラされてたと思う。20代でリストラはないだろう~ってな憶測を外資は簡単に裏切ってくれそうだからね。身の丈はわきまえないといけないね。

先日のニュースで、静岡県浜松市天竜の材木会社が中国に輸出開始!っといった記事を発見した。日本で唯一、林業を専門にした天竜林業高等学校を抱える天竜では、アルプス山脈の材木加工がかつては栄華を誇っていた。(僕は当時を知りませんが・・・)。でも、東南アジアの安価な材木輸入で、紀伊地方はじめ、日本の多くの林業が衰退していった過去50年ではないでしょうか?それが、ここにきて、中国国内の物価上昇(材木2倍高騰)により、日本からの輸出にて採算見通しがたち、天竜の中小企業が輸出を開始するといった、とてつもなく明るい、応援したくなるニュースは、とっても刺激となる。これって、本当に、凄い事だと思う。いままで、厳しい環境下を生き延びてきた事も素晴らしいし、高品質材として付加価値をつけて輸出するあたり、僕は、誇りに思う企業である。こういう会社が、まだまだ、日本で頑張っているあたり、天竜材木クラスターの意地を感じられて、嬉しい限りです。成功するかは、分かりません。でも、夢を持てる、夢を与えてくれるようなアクションは、大いに賞賛に値するでしょう。勝手ながら、僕は、Happyを感じました。

なのでHappyを感じたのかなぁ?はやり、故郷が、契機付くってのは、理由は分からないけど、なんか、嬉しい事なんですよね。そこに住んでいると、そのセンスが鈍るけど、離れて暮らしてみると、その価値が染みて来る。オイラも、故郷に錦を飾ってみるかなぁ~!

2007年8月10日金曜日

修士論文終了

最後の最後に、自分を追い込んだ2週間でした。殆ど、睡眠する以外は、寮の24時間図書館に篭ってた。でも、ずっと机に座っても居られなかったから、散歩しながらアイディアを発想したり、外でタバコ吸いながら文章を校正したり、お疲れ様でした to me. 正直、シンドカッタけど、ちゃんと、卒論は提出しましたよ。これで卒業できると良いのですがね。まぁ、ゼミの先生にも添削してもらったし大丈夫だよね?ここにきて他の単位を取りこぼしてないか、ちゃんと単位計算あってるか心配になり、一応、再計算してみたけど、大丈夫そうなんだよね。ねッ?

大学院の卒業までの過程を振り返ると、最後の卒論ってのが神経戦だったけど、10年前の大学卒業時のギリギリ感の方が、切羽詰まってたよね。あの時は、最後の最後まで、ギリギリで、一般教養落としたらどうしよう、必修英語落としたらどうしよう、なんで4年生にもなって体育やってんだ?ってビクビクしながら生活してた。運よく卒業できて、桜を満喫できたなぁ~って振り返る。卒業に140単位必要だったんだけど、1年次=20単位、2年次=20単位、3年次=40単位、4年次=60単位って加速度合で、後半頑張った。特に、4年次は、それはそれはテスト前日だけは死に物狂いで勉強したなぁ~。今回のMBAは、1年間で60単位だったから大学時代の4年生と同単位数なんだけど、なんか、MBAの方が、疲れました。20回は度肝抜かれた。

MBA卒論のテーマは、「20年後、Fortune雑誌が、555をトップ表紙を飾っている。さて、なんで?功績はなに?その時の立場は?」ってな事を書きました。それが、命題でしたし・・・。自分の価値感、人間性を問う命題でした。構想に2ヶ月強を費やしました。すなわち、このブログは、卒論の為に始めたと言っても過言ではないし、その集大成として卒論が仕上がったのではないか?っと自負しています。このブログに、英語論文を貼り付けても良いですが辞めておきます。555-HappyDiaryを本出版する際に、末尾備考として掲載したいと思います。そしたら、みんな、買ってくれますか?

2ヶ月前に、会社のMMM部長に、「元気ですよ!」メールを送った際に、卒論のテーマが決まり、どうしたらいいでしょうか?みたいな簡単な相談事をぶちまけた。今、勤務している会社の社長にでもならないと、卒論ネタとして成立しませんよね?グレート係長ではFortune誌は取り上げませんよね?それか、一層のこと、違った路線で攻めた方が賢いですかね?ってメールしたことを思い出す。翌日、MMM部長のメール返信は、出張中の印度からで、「全然駄目!どこの会社かは別として、社長なんて当たり前だぞ!それを前提に、時代を変えなきゃいかん!最も影響力をもつCEOを目指せ!」っとアドバイスをくれた。だから、感謝の意を込めて、卒論のタイトルは、「The next generation CEO who has huge influence to All stakeholders」って事にした。えへへへ、コミットメントしてみました。

凄く哲学的に、人間性を問う卒論である為、内容にあたっては、当然、転職するか?このまま続けるか?って壁にぶち当たりました。卒論内容とはズレますが、その問いかけに対し、行き着く最終的な問いは次のような結論でした。

転職するという事は?
現実逃避としての転職は論外。ここで問う転職とは、それは、新しいフィールドへのチャレンジか?それは口実だけであって、それこそが逃避ではないか?環境を変えてみたい?なんだそれ?野茂や中田のように、あるフィールドにおいてト一流選手は、更に上を目指すことは格好良いだろう。自分の可能性を確かめたい?それが意図する事は、自分はあるフィールドにおいて一流なのか?一流にもなってないのに転職するという事は現実逃避か?仮に、現状会社において自分が必要とされている(極論言うならば社長になれる)っと思えたら、転職しないのでは?さて、どうする?

現状会社で継続するという事は?
現状満足としての継続は論外。ここで問う継続とは、新しいフィールドへチャレンジする勇気がないのか?あると仮定するならば、何故、転職しない?それは、現状会社にて自分の目指すフィールドが無限に存在しているのか?自分の可能性は、現状会社でも十分に試せると強い自覚があるか?既存ネットワークを活用することはできるが、それは現状満足という事なのでは?仮に、現状会社内において自分が必要(極論言うなら社長として期待されている)とされていると感じたとしても、それは、自分の価値感と合致しているか?

まぁ、こんな事を555価値感天秤に掛けてみて考えたりしましたが、それは、さほど重要ではなかったです。また、同様に、お金&地位ってのも、さほど重要ではなかったです。

それ以上に悩んだことは
①自分の追及するHappiness感
②自分がこの世に存在する意義(何故、この世に生を授かったのか?)
③自分の為に or 他人の為に?
④自分のMission(使命)とは?
⑤自分の信条は?

そんな内容の卒論でした。では、書籍出版を楽しみにしていて下さいね。では、店長、休憩入りまぁ~す!(豪遊開始)

2007年8月9日木曜日

ビルマ独立30人志士


1940年(昭和15年)の暮れ、“ビルマ建国の父”ことAung San(左写真、アウンサン将軍、ノーベル平和賞受賞のアウンサンスーチーは実娘)をリーダーにビルマ独立に向けた30人ものビルマ人青年が、静岡県浜松市にて亡命生活を送っていた事実を御存知ですか?アウサンを筆頭に、その独立30人志士が、日本でビルマ建国シナリオを描いた事を記念し、浜名湖を望む舘山寺大草山の頂上には、「ビルマゆかりの碑」が立てられています。今、幽閉の身となっているスーチー女史(AungSan将軍の娘)も、この大草山の地を訪れた事があるそうだ。
ミャンマーでは毎年3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げるそうです。このパレードはいきなり日本の“軍艦マーチ”から演奏し始めるらしいです。続いてミャンマーの軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の軍歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。ビルマ人は、日本を尊敬しているからか?まぁ、私見は、最末尾に書きます。(途中は、飛ばしてもいいから、私見は読んで!)歴史は、知らなければそれまで。知ってしまうと、その因果関係に嵌ってしまう。その因果関係を下記に紐解く。
Aung Sanの視点
当時のビルマは、イギリスの植民地政策の下、インド&中国系商人にビルマ産米の取引を一任させていた為、ビルマ農民は、非常に苦痛に耐えざるを得ない生活を余儀なくされる。AungSanは、ヤングーン大学時代から反英主義を主張する学生運動の中心的人物であった為、1930年代後半は、イギリスによる政治運動家弾圧から逃れる為に、ビルマ地方に隠れながら、逃げながらの状態となる。大国イギリスと、どのように戦って独立を果たすか?仲間達と逃げながらも戦略を立てる事となる。
日本陸軍の視点
日中戦争真っ只中であり、この時には、蒋介石は、南方へと追いやられているが、米英が蒋介石を支援する所謂、蒋介石ルート(4本あり、インドシナルート、ビルマルート、ソ連中国内陸ルート、中国沿岸ルート)を絶つ必要があった。1940年には、ビルマルートの軍事物資輸送量が増してきており、遮断したいが南アジアの事情に精通していない為、スパイという形で鈴木敬司大佐をタイへと派遣し、東南アジア情勢を把握する事を命題とする。1940年当時、日本海軍はラングーン在住の予備役大尉国分正三を通じて早くから情報収集に努めていた一方で、日本陸軍が持っていた情報は無きに等しかった。1940年6月、鈴木大佐は日緬(ビルマ)協会書記兼読売新聞特派員「南益世」の偽名を使ってラングーンに入り、タキン党員(AungSanが大学時代に結成した政治団体)と接触した。そこで鈴木大佐はAungSanたちがアモイ(ビルマ地方)に潜伏していることを知り、彼らを日本に招くことを決意する。11月、AungSanたちはアモイの日本軍特務機関員によって発見され日本に到着した。鈴木大佐はAungSanに「面田紋二」、ラミヤンに「糸田貞一」の偽名を与えて、ビルマを脱出させ、日本へ亡命させる事となる。
鈴木敬司陸軍大佐とは?
鈴木大佐はビルマについて調べていくうちにタキン党を中核とする独立運動に着目した。運動が武装蜂起に発展するような事態となれば、ビルマルート遮断もおのずから達成できるであろう。こうして、外国勢力の援助を欲していたビルマ民族主義者と日本との提携が成立へと動き出すのである。1941年2月1日、陸海軍大本営は、直属の特務機関「南機関」を正式に発足した。南機関とは、いわゆる、日本版CIA特殊部隊である。鈴木大佐は、その最高責任者(機関長)っとなった。実は、この鈴木敬司少将(出世)こそが、我が郷土の浜松出身なのである。1967年(昭和42年)に70歳で他界されている。
鈴木敬司&AungSanの連携
ビルマのイギリスからの独立、日本軍の東南アジアへの勢力拡大の思惑がマッチし、お互いにとって不可欠な存在となる。まさに、歴史が2人の関係を築いた事になる。浜松で体制を固めた30人志士は、その後、海南島にて特殊軍事訓練(これがとてつもなくハードだったらしい)を積み、バンコクへと進み、1941年、ビルマ国民にとっては偉大な存在となるBIA(Burma Independent Army ビルマ独立義勇軍)を旗揚げする。後に、日本軍のビルマ侵攻と共に、独立に希望を抱くビルマ国民がBIAに参加し、その数は、27,000人にも達したそうである。
義勇軍の司令官には青年たちが心から慕う鈴木敬司大佐が就任した。AungSanの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で、イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつかかならずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれるというボモージョ伝説を演出したものでした。鈴木大佐は、ビルマでは、「雷帝」と言われているそうです。もちろんビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させてしまいます。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです。
歴史の皮肉
しかし、日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まってくる。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのである。また、別の見方として、ビルマ全土を解放した後、南機関は即時にビルマ独立を主張したが、現地日本進駐軍はそれを認めず、1942年に南機関は事実上解体され、1943年8月にやっと認めたビルマ独立も、初代首相バモー、国防省AungSan体制で日本軍監督下におかれ、結果として当初のAungSanとの独立約束を反故にしてしまったことも追加する必要がある。
それまで日本とともに闘ってきた30人志士たちも動揺します。バー・モウ(後の初代首相)やボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してたそうです。けれどもAungSanは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」であるとバー・モウ(後の国家元首)に手紙を書き、1945(昭和20)年3月、ついに日本に反旗をひるがえすのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。
ビルマ独立宣言&AungSanの夢直前にして・・・ 再び植民地支配を目指すイギリスに対してAungSanは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。もう昔の従順なビルマ人ではなかったのです。そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかし、しかし、この席にAungSanはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。
日本の大東亜戦争をビルマ人はどう解釈するか?
初代独立後のビルマ首相バー・モー(Ba Maw)は、自書「ビルマの夜明け」の中において、次の様に、大東亜戦争を評価している。「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく(イギリス政府が、ビルマ独立を承認した日)、1943年8月1日(日本軍主導でビルマ独立)に行われたのであって、真のビルマ解放者はイギリスのアトリー内閣率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」っと、20年後に記している。BaMawは、1943年11月に東京で開催された大東亜会議に出席している。その際、大東亜宣言が採択された会議である。(台湾、フィリピン、満州などの最高責任者が集う会議だったが、関係国からの修正意見は日本側にことごとく拒絶され、結局一字一句の変更もなされず、全会一致で採択された宣言であった)

私見 (これが、一番重要)
BaMawの日本びいき、現在ビルマの国軍記念日に軍艦マーチ♪が流れることで、大東亜戦争が美化されるべきものでもない。そんなに単純ではない。現在、ミャンマーの歴史教科書には、当時の日本をファシスト、イギリスを帝国主義と書かれているそうである。歴史は、そんなに簡単に論じられないと痛感するのは、ミャンマーからの留学生に、「ならば、日本は、ビルマ独立貢献国として、喜ばれているのか?」って聞いたところ、「・・・・・」だからである。複雑である。

だからといって、僕は、あの戦争の全てを否定したくないと考えている。当時のアジアは列強支配だったし、日本は島国だから列強にとったら魅力なかっただろうけど、列強の恐怖は感じていただろうし・・・。大東亜共栄圏の思想は、手段こそ誤ったものの、思想自体は素晴らしかったのではっと思うところもある。あの思想を日本軍(武力)主導で行ったことが失敗だった。あの時、アジア植民地代表が東京に集い、軍事的手段でなく、政治的手段(非暴力闘争、植民地同士の対等関係)で解決策を求めたならば、Aseanコンセプトだし、EU(ヨーロッパ連合)よりも半世紀以上も前に、国境もない、通貨も同じ、アジア共同体が夢見れたかと思うと、悲しい限りである。あの時、日本人、韓国人、中国人、ビルマ人、ベトナム人って分類したけど、“アジア人”っと皆が言えてたら、とてつもなく美しい。

ビルマといえば、「ビルマの竪琴」が、日本では、少し有名かな。僕は、著者の竹山道雄氏を、作家として評価するよりも、1940年日独伊三国軍事同盟締結の際に、全体主義(民衆一人一人の自由、権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理)の台頭に対し、文学者として警告を発していたことを評価している。しかし、別の見方をする人がある。それはそれで、宜しいかと思う。別の視点で、戦争批判をしなかった知識人の不作為責任を追求する評価もある。大いに議論したら良いと思う。議論する為に、もっと事実を勉強したら、もっともっと良い事だと思う。

今まで、このブログでは、戦争を避けてきた。重い話だし、単純ではないし、ややこしいし。本当は、避けたかったけど、8月は、広島&長崎だし、終戦記念日ってのも控えている。今年の靖国は、どうなることやら。日本人である限り、あの昭和史は避けて通れないだろうね。いや、僕は、日本人だからじゃなく、アジア人として、あの戦争を今後も見つめて行きたいと思う。そろそろ日本人だからって言うか、日本国籍だからって愛国心もないし訳だし、どちらかっていうと、僕は、アジア人(地球人)になりたいと思います。

参考文献:
ビルマの大東亜戦争―雷帝と呼ばれた男/鈴木敬司 Amazon
ビルマの竪琴をめぐる戦後史 By馬場公彦(法政大学出版局) Blog
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